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【特集】マーヴィン・ゲイによる『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されている30本の古いカセットテープ) 』をベルギーで発見 ‼

【特集】マーヴィン・ゲイによる『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されている30本の古いカセットテープ) 』をベルギーで発見 ‼

【 プロローグ 】

 
1984年4月1日、エイプリル・フールの日曜日、教会で祈る日に牧師の息子が同じ名前の父親に撃たれた。

45歳の誕生日を明日に控え、 “ 崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』” は死んだ・・・。

常に愛を歌い、しばしば平和と信仰と官能を歌ったシンガー、そして、たとえ自身が切望する理想を放棄することになるとしても、常にアーティスティックな使命を忘れることがなかったマーヴィン・ゲイ。

マーヴィン・ゲイが残した優れた作品群に耳を傾けたのなら、彼が心から自身の役割に取り組んでいたことがわかるはずだ。

ありのままの感情や、人間としてのあり方を表現することが、彼がアーティストとして生きていく唯一の方法だった。

たとえ、それが比較的質の劣る楽曲であったとしても、そこに、彼が『自分の核にあるもの (スピリット)』を形にしようとしていた跡が残されていることに、きっと気づくに違いない。

それが真の芸術性であり、それが『ソウル・ミュージック』なのだ。

マーヴィン・ゲイは、『ソウル・ミュージックそのもの』だったのである ‼

「人生で挫折を味わっていないアーティストに良い作品は生まれない。物事の本質を、深さを、意味を僕は書きたい。アーティストにとって大切なことはたった一つ・・・ “人に美しい心を呼びさます” ことだ。」

 
1984年4月1日にマーヴィン・ゲイはこの世を去った。しかし、彼の『声 (スピリット)」と歌 (ソウル)』は未だこの世を去ってはいない ‼

そして今年はマーヴィン・ゲイの死から40年が経ち、生誕85年目にして『亡くなったアーティストによる新しい音楽』が登場する可能性がある・・・。
 


【特集】マーヴィン・ゲイによる『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されている30本の古いカセットテープ) 』をベルギーで発見 ‼

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【 ベルギーに40年以上隠されていた『マーヴィン・ゲイの贈り物』 】

 
2024年3月30日の午前2時47分、BBCニュースは『Marvin Gaye:Never-before heard music surfaces in Belgium (マーヴィン・ゲイ:ベルギーでこれまで聞いたことのない音楽が浮上)』と題し、 “ マーヴィン・ゲイによる『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されている30本の古いカセットテープ) 』がベルギーで発見された ” と報じた。


しかし現在、 “ ベルギーに40年以上隠されていた『マーヴィン・ゲイの贈り物』の非常に貴重なコレクションの運命 ” が決定されようとしている ‼

(※ 詳細は後記【 BBCの報道と他の現地ベルギー国内報道を比較検証 】を参照)

 
マーヴィンのベルギーとのつながりの話は以前にも語られている・・・‼
 

彼はロンドンに住み、コカインの常用者になりつつあったが、ナイトクラブでベルギー人のコンサートプロモーターと出会った。彼はプロモーターの名刺を受け取り、1週間後に電話をかけ、海岸沿いの都市オステンドへの引越しを手配した。

この行動が歌手の命を救ったと言っても過言ではない。

彼は再び体調を取り戻し、北海の平坦な土地でジョギングやサイクリングをし、スタジオに戻って最大のヒット曲の一つである『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』をレコーディングした・・・

(※ 詳細は後記【 マーヴィン・ゲイを救ったオステンド時代の友人 】を参照)

 
この驚きのニュースは、1981年にマーヴィン・ゲイがコカイン中毒と闘うためにベルギーの海岸沿いにある都市「オステンド」の自宅で一時期もてなしていた、ベルギー人ミュージシャン『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン):1952年3月1日 – 2019年11月16日』に贈られたものと報じられている。

BBCによると、マーヴィンは1984年に家庭内での口論中に父親に射殺されたが、その品物をベルギーのデュモリン氏の家族に残し、音楽の歴史の一部を40年以上自宅に保管してきたという。

伝えられるところによれば、マーヴィン・ゲイはオステンド滞在中に作曲家からアーティストに転向したチャールズ・デュモリンと同棲しており、滞在させてくれたお礼として、ベルギー出国時にデモやステージ衣装、手書きの手紙などのアーカイブを残してくれたと言われている・・・。

デュモリン家で何十年も保管されていた『マーヴィン・ゲイのこれまでに見たことのないコレクション』の中には、 “ 未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されているとされる30本のカセットテープ ” のコレクションのほか、舞台衣装、コンサート公演の進行指示書、レコード会社に宛てた怒りの手紙、新曲の歌詞の下書き、そして個人的な思いが詰まったノートなどがタイプされている。

マーヴィンはそれを彼らに渡す際、「好きなように使ってください」と言い残し、二度とオステンドに戻ることはなかったという・・・

 
今回のBBCの独占取材ではマーヴィン・ゲイの洋服や衣装のラックを目撃しており、その中には彼がツアー中に着ていた紛れもない赤いスーツも含まれている。

それらは全体のほんの一部にすぎないと言う・・・。

これらは、ベルギーに40年以上隠されていた宝庫の一部だが、今回注目すべきは、ベルギーで40年以上隠されていた未発表の新曲を、マーヴィンが同時期に録音した可能性があるという興味深い可能性をBBCが明らかにすることができたことである・・・

 
その中には、『大規模な世界的ヒットになる可能性がある曲』も含まれているという ‼

デュモリン氏はマーヴィンから大量のステージ衣装やノート、カセットなどを贈られ、その中に彼がベルギーで録音した60曲以上のデモを収録したカセットテープが含まれているが、デュモリン氏が2019年に他界し、現在はデュモリン氏の家族の手に渡っている。

しかしながら二人が他界しているため、『贈り物』とされる話の信憑性が疑問視されると同時に、未発表音源の法的権利がどこにあるかということが焦点になり、ベルギーの弁護士でデュモリン氏の家族のビジネスパートナーでもある『Alex Trappeniers (アレックス・トラペニアーズ)』は、その未発表音源の中に、世界的ヒットになる曲があるかもしれないとしつつ、BBCに次のように語っている・・・。

「それらは現在、デュモリン氏の家族のものです。42年前にベルギーに残されたものですからね。マーヴィンが彼らに渡し、 “好きなようにしてくれ” と言い、彼は二度と戻って来ませんでした。そこが重要なのです。」

「私は、(カセットで)マーヴィンが歌い出すたびに番号を付け、最終的に30本のテープを聴き終えると、66曲のデモがありました。そのうち何曲かは完成していて、中には “Sexual Healing” と同じくらい素晴らしいものがありました。同じ時期に作られていますから。」

 
その1曲とは、ベルギーで書いた彼のキャリアで最大の成功を収めた1982年のシングル『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』のレコーディングに入る少し前に録音されたもので、アレックス氏によると、「惑星配列の瞬間と比較すると、他の曲より頭一つ抜けている」と語っている。

「ある曲があって、10秒間それを聴いていると、一日中音楽が頭の中にあることに気づきました。その言葉は一日中私の頭の中にあり、まるで惑星が一直線になった瞬間のようでした。」

 
またアレックス氏は、「他の曲よりも優れた新曲は、将来マーヴィン・ゲイの世界的ヒット曲をまた聞くことができるかもしれない」とも語っている ‼

ベルギーには、どんな財産であれ、それをどのように取得したとしても、30年後にはその所有者になれるという法律があり、デュモリン氏の家族が所有者になる可能性は高いようだが、知的財産には適用されないため、楽曲を出版する権利はない。

BBCによると、マーヴィンの子供たち、マーヴィン3世、ノーナ、フランキーがこの発見にどう反応したかは不明だが、相続人3人のうち2人の弁護士は現在、このベルギーのコレクションの存在を認識していると言う。

今後交渉が行われる可能性はあるが、まだ始まっていない・・・‼

アレックス氏は、マーヴィンの未発表曲を完成させ、リリースすることについて、ゲイの遺産管理団体と合意に達したい意向を示しているが、マーヴィンの遺族は、彼の作品が正当な補償なく他人に利用されていると感じた場合、マーク・ロンソンのサンプリング問題のように訴訟を起こす傾向にあるため、これらの未発表曲が日の目を見るまでには、長く複雑な闘いが続く可能性があるとも語っている。

しかしアレックス氏は、米国のゲイ家との間で音楽を出版できる妥協点が見つかるかもしれないと考えている・・・‼

「マーヴィンの家族と(デュモリン氏の相続人)の手にコレクションが渡され、私たち双方が恩恵を受けると思います。」

「私たちが手を合わせて、マーク・ロンソンやブルーノ・マーズといった適切な人材を世界中で見つけられたら・・・。私は提案をするためにここにいるのではなく、OK、これを聴いて次のアルバムを作ろう、と言うためにここにいるのです。」

 
伝説的な音楽アーティストが数十年前の遺作をリリースするのはこれが初めてではない。昨年リリースされたばかりのビートルズの曲「Now and then」を見てほしい。

しかし、音楽には悪用されるリスクもある、とアレックス氏は説明した。同氏によると、「デュモリン家にはコレクションを販売する権利があり、購入者がトラックを自分のものとして制作する可能性がある」という驚くべき可能性だが、彼はそれが現実であると主張する。

「道義的には」とアレックス氏は付け加えた・・・‼

「私は家族と一緒に仕事をしたいと思っていますが、これは彼らにとって悪夢です・・・お金がたくさんある国から誰かが来て、私たちは合意を結んでこのコレクションがこの国から出ていくということです。」

そして最終的にアレックス氏は、「ここでタイムカプセルを開けて、マーヴィンの音楽を世界と共有できる」と結論づけた ‼

「それは非常に明確です。彼はとても存在感がある。」からと・・・

 
BBCは最後に、「短い生涯と悲劇的な死から40年が経ち、マーヴィン・ゲイは再び、今年最大のショービジネス物語の中心にいることに気づくかもしれない」と語っている・・・。

しかし、マーヴィン・ゲイの最後となり得る作品を世界が聴くことができるかどうかはまだ分からない ‼

マーヴィン・ゲイの功績は、彼の早すぎる死から40年が経った今でも世界中の音楽愛好家を魅了し続けている。

今まさに、マーヴィン・ゲイによるこれまでに聴いたことのないデモ音源は、世界的な見出しを飾りつつあるかもしれない・・・‼
 


 

【 BBCの報道と他の現地ベルギー国内報道を比較検証 】

 
今回のBBC報道による、マーヴィン・ゲイがベルギー滞在中に録音した未発表音源を含むオーディオテープのキャッシュ発見等の報道は、音楽業界内で興奮と法的複雑さを引き起こした・・・。

しかし同時に、カセットテープ、ステージ衣装、ノートなど、これまで聞いたことのない録音やコレクションの発見により、マーヴィンの音楽レパートリーに新たな次元が加わったことは間違いない ‼

今回のBBC報道によってこの発見を巡る法的な複雑さと倫理的配慮は、『象徴的なミュージシャンの遺産』を死後に保存し共有することの複雑な性質を浮き彫りにしたと言えるだろう・・・

 
一方、他の現地ベルギー国内報道では、これらの『隠された宝物の背後にある物語』にスポットを当て、ベルギー滞在中の『マーヴィン・ゲイの物語』についての高い信憑性を得るための取材努力により、今回の報道に至った経緯や『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる “ 非常に貴重なコレクション内容 ”“ それらの今後の運命 (現在の相続人とその弁護士が描いている今後の展開) ” など、幾つかの疑問に対し深く切り込んでいる。

特に、ベルギー滞在中の『マーヴィン・ゲイの物語』において、音楽プロモーターの「フレディ・クーサート」と「オステンド」に対する愛憎関係について触れつつ、スターがクリエイティブな健康を取り戻すのに役立った登場人物たちが、依然としてほとんど過小評価されているにもかかわらず、マーヴィンへの敬意と好感を未だに抱き続けている記事の多さに筆者は深い感銘を受けた・・・

 
それらの取材に対し、音楽業界と著作権を専門とするベルギーの弁護士でデュモリン氏の家族のビジネスパートナーでもある『Alex Trappeniers (アレックス・トラペニアーズ)』は、『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる話の信憑性と疑問に、より誠実に答えようとする努力とそれらの『歴史的および商業的重要性』を強調する姿勢が見て取れる。

しかし、幾つかの点で「BBCの報道内容」とは異なる発言も伺える・・・‼

実は今回、アレックス氏が今になってようやく『ベルギーに40年以上隠されていた “マーヴィン・ゲイの贈り物”』を発表した理由はいくつかある。

数年前にBBCがドアをノックしてきた時には、彼は忍耐と慎重さを求めた ‼

第一に彼は、マーヴィンが「故チャールズ・デュモリン」と現在その相続人である家族に託した『全てのコレクション』を完全に理解したかったからだ。

第二に、『マーヴィン・ゲイの楽曲盗用をめぐる訴訟』が負のエネルギーを引き起こした。

それは、「Pharrell Williams (ファレル・ウィリアムス)」による「Robin Thicke (ロビン・シック)」の大ヒット曲 “ Blurred Lines ” の『著作権侵害をめぐる一連の騒動』で、ゲイの遺族らが1977年にリリースされたマーヴィン・ゲイの楽曲 “ Got To Give It Up ” を盗用しているとし、約500万ドル=約5億2,880万円の損害賠償金を勝ち取った2018年の話しに起因していた・・・

 
このベルギーに残された音楽キャッシュは、1982年当時、マーヴィン・ゲイが録音した『66曲のデモを収録した30本の古いカセットテープ (13時間分の音楽に相当)』で、現在は故チャールズ・デュモリン氏の相続人であるデュモリンの家族が保管している・・・。

アレックス氏によれば、「今はタイミングが完璧です。マーヴィンの死から40年後のイースターに。これは、彼のアーティストとしての復活とリハビリに違いありません。離婚やドラッグの煩わしさもなく。」と述べている。

そして彼と全てのコレクションを保管しているベルギー人の家族らは、ドクター・ドレーとジェイ・Zが協力してくれることを望んでおり、「ヒットはある。もしかしたら20本くらいはあるかもしれない。」と言う。

また家族らの願いは、「マーヴィン・ゲイのユニークな回想録 (のちに判明する120冊を超えるノート) を確実に祖国に持ち帰りたいということです。本物のマーヴィン・ゲイ博物館で使用できたら素晴らしいでしょうね。」とも語っている・・・

 
今回、現地ベルギー国内の報道を中心に、ヨーロッパにおける幾つかの取材記事についても調べた結果、BBCの独占取材では明らかにされていない、『ベルギー滞在時における、マーヴィン・ゲイと隠された宝物の背後にある物語について興味深いスクープ』を掴むことができた・・・。

それらは確かに、これまで明かされてこなかった “ 未発表の事実 ” として目を見張る内容でもあった。

しかし、それ以前に誰もが忘れてはならない “ 重要な関心事項 ” は、紛れもなく今回浮上した『マーヴィン・ゲイの贈り物 』とされる “ 宝庫 (マーヴィン・ゲイのこれまでに見たことのないコレクション=偉大なる音楽芸術の遺産と所縁の品々) ” を贈られた人物、つまり、ベルギー人ミュージシャン『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン):1952年3月1日 – 2019年11月16日』についての詳細であろう ‼

現地ベルギー国内報道では、西フランドルのミュージシャンである『故チャールズ・デュモリン氏』について、1970年代に自身のグループ「Lester & Denwood (レスター&デンウッド)」と共にアメリカのビルボード100にランクインし、1979年にエルサレムで開催されたユーロビジョン・ソング・コンテストにベルギー代表として参加した「Hey nana」を書いた人物であると簡単に紹介している・・・

 
しかし、筆者が何よりも驚かされたのは、デュモリン氏が『セクシャル・ヒーリングの創始者の一人』であり、西フランダースのギステルの一部でモエレにある18世紀の別荘で『このヒット曲が生まれた』と、現地において広く認識されていることであった ‼

● ケケラーレ出身のベルギーのバンド『Lester & Denwood』

1973年、バンド『Lester & Denwood (レスター&デンウッド/活動年数:1973年 – 1981年)』は、西フランドルのKoekelare (ケケラーレ)で誕生した。このグループは、1973年に「Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン:別名 レスター)/音楽監督兼ヴォーカル」と「Freddy Demeyere (フレディ・デメエール):別名 デンウッド)/ヴォーカル」という、一緒に育ったいとこによって結成され、8年間の活動期間においてシングル9枚とアルバム1枚をリリースした。

・1973年、ファーストシングル「América」をリリース。
・1974年、「Sing, Sing」と「Angela」が続いた。
・1975年、彼らは再びスタジオに入り、シングル「Lazy Lady」と「Gipsy Woman」をリリース。
・1976年、シングル「Sunny Summer Morning」をリリース。

同年、デュオは最初で唯一のアルバム『Gipsy Woman』をリリース。その間、デュオは国内および国際的なチャートに何週間もランクインし、主要な音楽雑誌ビルボードのHot100部門で37位にランクインした。

・1977年、フレディ・デメエールは「Roland Vanblaere (ローランド・ヴァンブレア)」に交代。
・1979年にエルサレムで開催された『ユーロビジョン・ソング・コンテスト』にベルギー代表として参加。

その際、チャールズ・デュモリンは「Hey nana」を書いた。

・1980年には、シングル「Wish You Happy X-mas」をリリース。
・1981年のユーロビジョンの予備選に「Bonnie」という曲で参加し、その1年後にはシングルとしてリリースされた。また同年には、デュオでは最後のシングル曲「Walkman」がリリースされた。

 
現時点でデュモリン氏に関する情報は極めて数少ないが、ベルギーの北西に位置する西フランダース州で日刊また週刊ニュースを発信している『KW ニュース』が、2019年11月17日付の『チャールズ・デュモリン氏の訃報記事』においてデュモリン氏を、1982年当時の「マーヴィン・ゲイのルームメイト」と題し、マーヴィン・ゲイを側溝からシティ・バイ・ザ・シーに連れ出したオステンドの興行主『故フレディ・クーサート氏』を通じて、『モータウンの世界的スターと接触した』と報じている・・・。
 

● Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン)

1982年当時、マーヴィンは子供たちのノーナと5歳の息子フランキー、そして、オランダ人でガールフレンドだった24歳のユージェニー・ヴィスと一緒に、ベルギーの西フランダース州にある都市ギステルにあるデュモリン氏と彼の妻グレタの小さな城に引っ越し、そこで二人は意気投合したと記事には書かれてある・・・。

デュモリン氏はこのレジデンシーでカムバック・シングルとワールド・ヒット曲『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング) の制作に参加し基礎を築いた』とされ、彼はアメリカ史上最も偉大なソウル・レジェンドの一人を称えるためにオステンド市から依頼され、カジノ・クルサールのためにブロンズ像『マーヴィン・ゲイ記念碑』を制作している。

その記念碑の重さは 2500kg の実物大で、それはオステンドのクルサールのエントランスホールにあり、グランドピアノの指からは『セクシャル・ヒーリング』のヒットを想起させると紹介している。

その後、デュモリン氏は作曲家、プロデューサー、出版者、カバーデザイナー、マルチメディアアーティスト、グラフィックデザイナー、コンサルタントとして、影の中での生活を選んだ・・・。

彼はかつてインタビューで、「私にはたくさんの仮装があると思います。私は自分のことをアーティストだと思っていますが、トレンドウォッチャーでもあります。」

「僕は限界を押し広げたいけど、アンチスターとして、名声がすべてを意味するわけではないからね。誰に対しても平等に敬意を払わなければならない。」と語っている・・・

 

何年もの間、デュモリン氏は妻のグレタ(グリーチェとも)、息子のブラム、娘のジャンナとともに、ベルギーの画家・彫刻家・切手デザイナーであり、ブルージュ美術アカデミーのディレクターでもあった『Flori van Acker (フロリ・ヴァン・アッカー):1858年4月6日 – 1940年3月14日』が所有していたコルテ・ヴルダース通り30番地の建物に住んでいた。

この元画家であり、ブルージュ芸術人文科学アカデミーのディレクターが所有していた印象的な建物は、2002年から保護されている。

90年代後半には、1 階にあったアート・パブ『Het Huis der Kunsten (ヘット・ハウス・デア・クンステン)』は数年間、クリエイティブな場として訪れることができたと言う・・・。

 
今回、BBCの報道と他の現地ベルギー国内報道を比較検証して行く中で、『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる話の信憑性と疑問に対し、2008年に初めて公開された「チャールズ・デュモリン氏」自身のウェブサイトでの投稿記事が有力な証言の一つと言えるが、残念ながらそのサイトは現存していない。

但し、デュモリン氏のウェブサイトのアーカイブ版からMail Onlineが入手した文書によると、マーヴィンはデュモリン氏とその妻グレタ氏と1年間同居していたと言う・・・。

その文書の中でデュモリン氏は、『マーヴィン・ゲイの贈り物』の存在をほのめかしている ‼
 

 
1982年当時、マーヴィン・ゲイがベルギーの海岸沿いにある都市『オステンド』に滞在中、売りに出されていた『Mestdagh (メストダー家)』が所有するギステルの準自治体「モエレ」のムールダイク通りにある18世紀の21室 (22室とも) の荘厳な別荘を、レーシングバイク (マーヴィンの誕生日にフレディ・クーサートがプレゼントしたバイク) に乗っているときに発見し、そのヴィラに恋をした・・・。

当時、チャールズ・デュモリン氏の妻『Greta Mestdagh (グレタ・メストダー)』がこの別荘に住んでいた。

この新古典的なカントリー スタイルの邸宅は、現地で「ホワイトハウス」と呼ばれ、1880年頃に建てられた。メインボリュームの左右には、平らな屋根の下に低いサイドウィングがあり、サービスルームが収容されている。この家には、両側に注目すべき「階段状」温室があり、1階では低い翼に沿って建てられ、上階では主要な空間に沿って建てられている。1985年に温室のあるこの荘厳な別荘は記念碑として保護された・・・

 
ヴィラは、第二次世界大戦中にナチスの本拠地だったオステンド郊外の大邸宅で、マーヴィンはその年の2月頃、1982年11月1日に生前リリースされたマーヴィン・ゲイの最後となる17枚目のスタジオ・アルバム『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』に取り組んでいたミュージシャンたちと一緒にヴィラに引っ越し、購入の手続きは後で正式に手配される予定だった。
 

確かにこれまで、マーヴィン・ゲイの最大のヒット曲「セクシャル・ヒーリング」は、オステンドの海岸に打ち寄せる、穏やかな波を望める落ち着いた7階建てアパート (アルバート I プロムナード 77 レジデンス・ジェーン) の5階にあった、『マーヴィンの住居で毎晩行われたジャム・セッションで誕生した』と語られてきた・・・。

しかし、マーヴィンとよくジャム・セッションをしていたベルギーのキーボーディスト『Donald Pylyser (ドナルド・ピライザー)』は、オランダの日刊紙「Het Parool」の中で、「セクシャル・ヒーリングはオステンドで生まれたのではなく、15キロ離れたモエレの自宅 (別荘) のキッチンテーブルで生まれた」と主張している。

また、ドナルド・ピライザーは、「セクシャル・ヒーリングには別バージョンも存在する」と証言している・・・

 
マーヴィンは6ヶ月間の滞在中、そこで次から次へとカセットを埋めた。
 

ベルギー滞在当時のマーヴィン・ゲイに密着していた、ローリング・ストーン誌のジャーナリスト「David Ritz (デヴィッド・リッツ)」の著書『Divided Soul (ディバイデッド・ソウル)/邦題:引き裂かれたソウル』では、意外にも “ この邸宅には数週間だけの滞在であった ” と記載されている・・・

(※ 真相は後記【 論 考 Ⅱ:そして物語は『マーヴィン・ゲイの暗号物語』へ 】を参照)

 
このヴィラこそが、マーヴィンがベルギーに住んでいたときに新しい曲を作り、バンドのリハーサルをした場所だった・・・‼
 

しかし、1982年8月、マーヴィンはビザの問題により突然ベルギーを出国せざるを得なくなり、その中身を残したまま別荘を出なければならなかった。
 

彼がベルギーを離れなければならなかったとき、「ごちゃごちゃしてごめんなさい、どうぞお好きなように」とマーヴィンは言った・・・

 
そしてマーヴィンは、ベルギーを出国後にミュンヘンへ、同年の10月にはアメリカへと旅立ち、二度と戻ってこなかった・・・‼
 

確かに、2008年に初めて公開されたデュモリン氏のウェブサイトのアーカイブ版からMail Onlineが入手した文書の中では、「1982年8月、グリーンカードの問題のため、突然マーヴィンは国外に出なければならなくなった」と記されていた。

その年の秋、わずか数週間後にツアーのためにアメリカに戻る機会が与えられたとき、「チャールズとグレタに家 (ギステルの準自治体モエレにある18世紀の21室の別荘) の保証金としていくつかのスーツケースを提供した」とする記事も存在している・・・

 
その時点までにマーヴィンへの家の売却手続きは完了していなかったため、メストダー家は新しい買い手を探さなければならなかった。そのため、ヴィラの室内を掃除する中にマーヴィン・ゲイが持ち込んでいた衣装からテキスト、日記、そして音楽カセットに至るまでの多くの品物を見つけたため、全て箱に入れて保管していた・・・。
 

マーヴィンは、1982年に6か月間住んでいた家を離れる際に「故チャールズ・デュモリン」、つまり、現在はデュモリン氏の相続人であるデュモリンの家族『メストダー家』にこの品物を贈ったと言うことである

そして、ベルギーを出国してから18か月後の1984年4月1日、45歳の誕生日の前日、マーヴィンは父親との口論の末に射殺された。

その悲劇の死からからちょうど40年が経った現在も、「オステンド」とのつながりは強く、『30本の新しいテープ』が明るみに出た今、更にその強さは増している・・・

 
メストダー家は、これらの品物の多くを何年も保管し大切にしていたが、結局、彼らはこれらすべてをどうすればよいのか考え始め、今から4年前の2020年、音楽業界と著作権を専門とするベルギーの弁護士『Alex Trappeniers (アレックス・トラペニアーズ)』に相談した。

そしてアレックス氏は、『マーヴィン・ゲイのこれまでに見たことのないコレクション』のすべてを確認しながら、同時に研究した・・・。
 

故チャールズ・デュモリン氏の家族であった、現在の相続人「メストダー家」で何十年も保管されていたその『コレクションは全部で216点』にも上り、『衣装約50着とアクセサリー』、『タイプされたコンサート公演の実行注文 (コンサート公演の進行指示書)』、『レコード会社への怒りの手紙 (手書きの手紙)』、『新曲の歌詞の草稿 (新曲の歌詞の下書き)』、そして『個人的な思いが詰まったノート (120冊を超えるマーヴィン・ゲイのユニークな回想録)』があった。

そして、その中には『最も重要なコレクション』と断言できる、『デモを収録したカセットテープ (約13時間の音楽が入った30本の古いカセットテープ)』が含まれていたのだ・・・

 

その結果は驚くべきもので、古いカセットテープには『66曲の音楽が録音されており、そのうち38曲はマーヴィン・ゲイ自身の声』が入っていた。

そのほか、『20曲もの未発表音楽』も含まれていると言う・・・‼

アレックス氏によると、「4年前、彼らはそれを持って私のところに来ました。それ以来、私はその一秒一秒を聴き、カタログ化してきました。66曲の音楽があり、そのうち38曲はマーヴィンの声を特徴としています。少なくともそのうちの1つは、カムバックヒット曲 “ Sexual healing ” と同じくらい強力です。」

そして彼は、『テープの重要性を過小評価してはならない』という

「マーヴィンがどのように仕事をしたか、そして彼の曲がどのように生まれたかを聞くことができます。当時、彼のレコード会社はマイケル・ジャクソンの “ スリラー ” にも出資していた。それをマーヴィンのリソースの隣に置くと、それがどれほど罰せられるかはほとんど信じられないほどです。また、セクシャル・ヒーリングには、 “ 誰も聞いたことのない8つのヴァージョン ” があります・・・何年も前からマーヴィンと対話してきたような気がした。」

しかし、「デモとレコーディングのありそうでない宝物。マーヴィン・ゲイが1982年にそれらすべてを残したとき、それはそれほど価値がありませんでした。今はタイムカプセルが開くようなものだ。」と述べている。

そしてアレックス氏は、「カセットを含むコレクション全体がメストダー家の所有物である。」と主張している

 
ただし、曲をリリースするのは簡単ではない。マーヴィン・ゲイの知的財産の所有者に許可を求める必要があり、それにはマーヴィンの3人の子供たち、マーヴィン3世、ノーナ、フランキーの取り扱いも含まれる。

アレックス氏の意図は、実際に音楽をリリースすることと述べ、2024年4月1日の月曜日、マーヴィンの子供たちの弁護士とこの件について話し合った。

「テープはメストダー家のものですが、知的財産は3人の子供たちのものです。これがいかに重要かを説明したいと思います。お父さんと同じ過ちを犯して、この音楽を隠すわけにはいかない。」

 
また、アレックス氏の夢のシナリオでは、マイケル・ジャクソンの死後のレコードで起こったように、Mark Ronson、Dr. Dre、Jay-Zなどの名前がデモに取り組むことを望んでいる・・・。

「彼らは皆、マーヴィンへの崇拝のためにやって来ます。そして、スティーヴィー・ワンダーにたどり着くと本当に面白いでしょう。彼にとってマーヴィンはアイドルだったのです。」

「それはメストダー家と私にとって、経済的に興味深いものになるかもしれません。断りにくい提案でもあるでしょう。電話が鳴り止まない。しかし、それは優先されません。大切なのは、ここベルギーで生まれた音楽です。マーヴィンのキャリアのハイライト。私たちはそれを誇りに思っています。私はそれがさらにいくつかのヒットをもたらすと確信しています。ヒップホップのサンプルで、20個くらいかな。」と、アレックス氏は最後に締めくくった・・・

 
いつものように、大金が絡む可能性がある場合(マーヴィン・ゲイの新曲がよく売れるのは明らか)、議論や交渉は慎重になる可能性が高いだろう・・・。
 


そして現在、冒頭でも述べたように “ ベルギーに40年以上隠されていた『マーヴィン・ゲイの贈り物』の非常に貴重なコレクションの運命 ” が決定されようとしている ‼

 
2024年3月30日の午前2時47分、BBCニュースは『Marvin Gaye:Never-before heard music surfaces in Belgium (マーヴィン・ゲイ:ベルギーでこれまで聞いたことのない音楽が浮上)』と題し、 “ マーヴィン・ゲイによる『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表のデモ音源66曲の音楽が収録されている30本の古いカセットテープ) 』がベルギーで発見された ” と、『如何にも真新しい、最大のスクープ』として報じた・・・。

しかし、ベルギーで発見されたマーヴィン・ゲイが所有していた音楽テープ、衣服、書類等の『非常に貴重なコレクション』は、今回の報道 (BBCニュース及びその他の報道) に先立って、既にベルギーの弁護士でデュモリン氏の家族のビジネスパートナーでもある『Alex Trappeniers (アレックス・トラペニアーズ)』がプロデュースする Webサイト『MARVIN GAYE IN BELGIUM (ベルギーのマーヴィン・ゲイ):2024 Collection Mestdagh (2024 コレクション メストダー)』において、2023年8月28日に作成・公開されている ‼

そのWebサイトのトップページ (HOME) には、『MARVIN GAYE IN BELGIUM (ベルギーのマーヴィン・ゲイ)』との「サイトのタイトル」と共に、非常に控えめな「サブタイトルとキャッチフレーズ」が掲載されている・・・。

「マーヴィン・ゲイが所有していた衣服、音楽テープ、書類のコレクション。1982 年に6か月間住んでいた家を離れる際に、彼はメストダー家にそれらのコレクションを寄贈した。そこは、ベルギーに住んでいた頃に、新しい曲を作り、バンドのリハーサルをした場所だった。」

 
全コレクションは、以下の Webサイト『MARVIN GAYE IN BELGIUM (ベルギーのマーヴィン・ゲイ):2024 Collection Mestdagh』でご覧頂ける。
 

● HOME – MARVIN GAYE IN BELGIUM

[2024 Collection Mestdagh – Produced by Alex Trappeniers]

 
そして現在、Webサイトでは「50点の衣類とアクセサリーからなるこのコレクションが販売されます。オークションハウスと販売日は近々このウェブサイトで発表されます。このWebサイトをフォローするか、lex.trap@skynet.be までご連絡ください。」と告知されている。
 

● INFORMATION – MARVIN GAYE IN BELGIUM

[2024 Collection Mestdagh – Produced by Alex Trappeniers]

 
マーヴィン・ゲイの死から今年で40年、『崇高なるソウルのカリスマ』の新しい音楽がベルギーの海岸沿いにある小さな街「オステンド」で発見された。

アメリカン・ソウルの空前の伝説の1つが、どのようにして80年代初頭に中央ヨーロッパの静かな片隅にたどり着いたのか ❓(※ 詳細は後記参照のこと)

オステンドは「マーヴィン・ゲイの物語」の終わりに向けたかなり興味深い脚注であり、「マーヴィン・ゲイの物語」は、基本的に「ソウル・ミュージックの物語」でもある。

筆者の見解では、これらの『隠された宝物の背後にある物語』こそ、マーヴィン・ゲイにとって “ キャリアのハイライト ” を飾る『セクシャル・ヒーリング 物語』として、 “ 彼の晩年人生と音楽の旅を描いた魅力的な章を再び明らかにする必要がある ” と考察する・・・‼
 


 

【 マーヴィン・ゲイを救ったベルギーの町 】

 
ベルギーの気取らない海辺のリゾート『Ostend (オステンド)』、その広大な砂浜とコンクリートの高層ビルの海岸線に沿って散歩し、冷たい北海を眺めた人々の中で、 “ アメリカのソウル伝説『マーヴィン・ゲイ』” ほど、この町と予想外に親密な関係を持っている人はいないだろう。

1981年2月、飲酒、麻薬、数百万ドルの借金と闘いながら、41歳のソウルのプリンスはすべてを逃れ、ベルギー唯一の海辺の都市 (ベルギー北西部のフランデレン地域に位置するウェスト=フランデレン州の64基礎自治体の一部) オステンドに向かった・・・。

その2年前の1979年、ハワイで暴飲暴食中に純粋なコカインを30g近く飲み込み、自殺を図った。離婚調停の一環として元妻に60万ドルを支払っただけでなく、米国政府に数百万ドルの借金を負ったマーヴィンは、古いパンの配達用バンで暮らすことになった。

翌年の1980年6月に渡英し、13日のロンドン・ロイヤル・アルバートホールでの初日を皮切りにヨーロッパ・ツアーを開催。その後、コカイン中毒に苦しんでいた彼は、税金未払いにより母国で投獄されるのを恐れ、米国を離れロンドンへと向かった。

しかし1981年2月、一文無しで麻薬中毒になった彼は家族らと共に、前年の6月以降滞在していたロンドンを離れ、ベルギーのオステンドに移り住んだ。

その年の6月には、1961年以来20年続いたモータウン・レコードとの契約を解除し、新たに米CBSコロムビア・レコードと契約。

移籍契約の実現により税金滞納も分割が認められ、彼が悩み続けた金銭トラブルは解決され、音楽活動に専念する扉が開かれることになった・・・。

マーヴィン・ゲイがオステンドに到着し、移住先での正確なイメージは、ある『短編ドキュメンタリー映像』から来ている。

その映像の中で彼は、「ジョギングや海の空気をたっぷりと浴びて過去の罪を清め、セックスさえも放棄し、よりクリーンな、さらには修道院のような生活を送っている」と公言した・・・

 
このドキュメンタリーは、マーヴィンが自分自身に対しても世界に対しても、『亡命中の孤独な魂のポーズ』をとっている。

真実を言えば、彼は同意なしにアルバム『In Our Lifetime』をリリースし、カムバックを画策しようとしていたレコードレーベル「モータウン」と係争中だった。

しかし、『セクシャル・ヒーリングの提唱者』である彼が、悲劇的な結果を伴いながらアメリカに戻る前に、彼自身の癒しを発見したのは、約18か月にわたるここオステンド滞在中であった・・・‼

1981年当時、マーヴィンはすでにソウルのアイコンであったにもかかわらず、ベルギーのオステンドでの彼の存在はほとんど注目されていなかった・・・。

しかし、雑誌「Télé Moustique (テレ・ムスティック誌)」がかろうじて宣伝していた、「マーヴィンのオステンド到着」について偶然にも読んでいたベルギーの映画監督『Richard Olivier (リチャード・オリヴィエ):1945年8月9日- 2021年3月3日』は、すぐに雑誌社の友人に電話し、マーヴィンの連絡先の詳細を尋ねた。

それについてオリヴィエ氏は、「たった3行だったけど、大きなニュースだということはわかった。まるでフランク・シナトラがショーモン・ジトゥーに現れたような気分だった。」と、2002 年 2 月にイギリスの音楽雑誌『MOJO (モジョ)』のインタビューにて初掲載された記事の中で述べている・・・

 
マーヴィンの同意を得たオリヴィエ氏は、撮影用の機材を集め、車に飛び乗ってオステンドに向かい、そこでスターとのインタビューを受けることができた・・・。

二人は旧港のレストランで会う約束をした。マーヴィン・ゲイがジョギングパンツ姿で登場。彼には、舞台裏でこの物語全体を書くことを許可した人物でもある、オステンド出身のホテル経営者『Freddy Cousaert (フレディ・クーサート) 』が同行していた ‼(※ 詳細は後記【 マーヴィン・ゲイを救ったオステンド時代の友人 】を参照)
 

● 映画監督『Richard Olivier (リチャード・オリヴィエ)』

作家、監督、脚本家、映画監督の『Richard Olivier (リチャード・オリヴィエ):1945年8月9日- 2021年3月3日』は、ベルギーで最も多作なドキュメンタリー映画監督の一人。

1971年、初の短編小説『Y en a marre des bananes』でキャリアをスタートさせた。映画に情熱を傾け、モニーク・リヒトと製作会社オリヴィエ・フィルムズを設立し、テレビ、特にRTBFのために多くのドキュメンタリーを撮影した。

中でも、「Their Feather Stuff」「Strip School」「The Idolettes」などの彼の映画は、ショーとドキュメントをミックスしている。

1981年には、アメリカ人ミュージシャンがベルギーの海岸を旅したドキュメンタリー「マーヴィン・ゲイ・イン・オステンド」を監督した。

祖国の生活を率直に見つめ、「Marchienne de vie」「Au fond Dutroux」「Un été à Droixhe」など、「禁断のベルギー」を明らかにするドキュメンタリーを数多く撮影し、また2002年にはベルギー最後の題材「Le der des der」を撮影した「Strip-tease」という番組にも協力している。

2007年、7年間撮影された長編映画『永遠のエスター』で、ブリュッセル・インディペンデント映画祭最優秀ドキュメンタリー賞、フランス共同体最優秀ベルギー・ドキュメンタリー賞を受賞。

作家としては、「ベルギー、いつも偉大で美しい」、「それぞれの自分の映画館へ」、「失われた映画を求めて」など、いくつかの共同作品に参加し、2011年に完成した最新作は、巨大なドキュメンタリーシリーズ「Big Memory」で、170人のベルギーの映画製作者との13分間のインタビューで構成されたこのパノラマは、既知、無名のさまざまな監督にスポットライトを当てている。

 
リチャード・オリヴィエ による『Marvin Gaye:Transit Ostend (マーヴィン・ゲイ:トランジット・オステンド)』は、1981年にマーヴィンがオステンドで過ごした時間を記録した29 分間の短編ドキュメンタリーで、オリヴィエ氏が資金のほとんどを出資し、映画は数日で撮影された。

この映画は、オリヴィエ氏がマーヴィンのアパートで録音した長いインタビューから抜粋した、彼の穏やかなナレーションで始まる。そして、彼が環境の不調和を冷静に楽しみ、まるで自分の憂鬱を映し出す水鏡であるかのように灰色の海を見つめ、アルバート一世の遊歩道に沿って散歩している姿を映している。
 

1982年のアルバム『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』に収録され、グラミー賞を2度受賞した1982年10月リリースの大ヒット曲『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』の発祥の地であるオステンドについてマーヴィンは、隠遁、苦行という観点から、「オステンドよりも行きたい場所はたくさんあるが、ここが私のいるべき場所だ。」・・・そして「私は現在孤児だ、オステンドは私の孤児院だ。」と1981年のドキュメンタリー映像の中(ベルギーではテレビ放映された)で物思いに語った・・・

 
リチャード・オリヴィエ の『Marvin Gaye:Transit Ostend (マーヴィン・ゲイ:トランジット・オステンド)』は、歌の権利に法外な費用がかかるため公開されたことがないが、テレビでは頻繁に放映されており、チャンネルは放映権料を一度だけ支払うだけである。
 

このドキュメンタリー映像の作成に対しマーヴィンは、「リチャードへ、私のアーティスト魂を正当なものとして認めてくれたことに心から感謝します。そして何よりも、私を不滅にしてくれたアーティストの友人に感謝します。」と述べている・・・

 
また、短編ドキュメンタリーの製作から 20 年後の2002年には、リチャードは2作目のドキュメンタリー映画『Remember Marvin Gaye:Life in Ostend (リメンバー・マーヴィン・ゲイ)』を製作した。

この映画についてオリヴィエ氏は、「マーヴィンが私に捧げた写真に命を吹き込む私の方法です。」と語っている・・・

 
新しいテクノロジーの使用のおかげで、この偉大なアメリカ人歌手の未編集のラッシュとオステンドでのインタビューが使用され、「リメンバー・マーヴィン・ゲイ」は、44歳で悲劇的に亡くなったこのリズム&ブルース音楽の天才についての感動的で並外れた証言となった・・・‼
 

 
またオリヴィエ氏は、マーヴィン・ゲイの没後20周年を記念して完成までに15年を費やしたという著書、『Marvin Gaye’s friend from Ostend (オステンド出身のマーヴィン・ゲイの友人)』を2004年に出版している ‼
 

● Marvin Gaye’s friend from Ostend

この本は、マーヴィン・ゲイとフレディ・クーサートの関係を描いた 124 ページ (うち白黒写真 24 枚) の半フィクションで、 “マーヴィン・ゲイの影に生きる男「フレディ・クーサート」” について、漂流したアメリカ人アーティストの2年間をどのように世話したのかを、流儀と感情を込めて説明している。

この感動的な物語の中で、マーヴィン・ゲイは、優しく、傷つき、面白くも悲しい人間として現れる。しかし、そこには友情が報われないフレディに執着している。たとえこれが不幸な結末を伴う悲しい物語であっても、兄弟のようなリチャード・オリヴィエによって、シンプルに語られる美しい物語が描かれている・・・。

 
マーヴィンの約18か月にわたるオステンドでの生活・・・そこでアパートを借り、教会の中で主の祈りを歌い、地元のオステンダーズと一緒にバスケットボールや漁師のバー(とっくに取り壊されている)を訪れ、地元の人々とダーツを楽しみ、遊歩道にあるお気に入りのカフェ「フロライド」を訪れ朝食する彼の姿がよく見られたと地元住民は語っている。

最初は少しショックを受けた地元住民もいたと言う・・・。

「当時この町には白人以外の人はほとんどいなかったし、もちろん誰もが彼の名前を知っていました。しかし、年長のオステンダー家の多くはマーヴィンと一緒に過ごした楽しい思い出を持っており、子供たちの中にはここの学校に来たときにマーヴィンの子供たちと仲良くなり、一緒に誕生日パーティーに行ったことを覚えている人もいます。地元のミュージシャンの多くは彼との演奏を思い出しています。」

また、「彼の周囲の人のほとんどは、彼がベルギーに永久に定住するだろうと確信していました。」と語っている・・・

 
それは確かにそのことを物語っている証拠として、1982年の秋 (※ 実際には同年2月)、「セクシャル・ヒーリング・ツアー」のためにベルギー出発の前、マーヴィンはオステンド郊外に21部屋ある大邸宅を購入している。
 

前項の【 BBCの報道と他の現地ベルギー国内報道を比較検証 】による報道記事によれば、1982年当時、マーヴィン・ゲイがベルギーの海岸沿いにある都市『オステンド』に滞在中、売りに出されていた『Mestdagh (メストダー家)』が所有するギステルの準自治体モエレにある18世紀の21室 (22室とも) の別荘を、レーシングバイク (マーヴィンの誕生日にフレディ・クーサートがプレゼントしたバイク) に乗っているときに発見し、そのヴィラに恋をした・・・。

当時、デュモリン氏の妻『Greta Mestdagh (グレタ・メストダー)』がこの別荘に住んでいた。

ヴィラは、第二次世界大戦中にナチスの本拠地だったオステンド郊外の大邸宅で、マーヴィンはその年の2月頃、1982年11月1日に生前リリースされたマーヴィン・ゲイの最後となる17枚目のスタジオ・アルバム『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』に取り組んでいたミュージシャンたちと一緒にヴィラに引っ越し、購入の手続きは後で正式に手配される予定だった。

しかしマーヴィンは、1982年8月にビザの問題により突然ベルギーを出国せざるを得なくなり、その中身を残したまま1982年2月から6か月間住んでいたヴィラを出なければならなかった。

その後マーヴィンはミュンヘンへ、同年の10月にはアメリカへと旅立ち、二度と戻ってこなかった・・・と言う説が、今回の取材から明らかとなった・・・

 
しかし、ツアーのためにアメリカに戻る機会が与えられたとき、彼はヨーロッパの避難所を永久に去った・・・。
 

実際には、マーヴィンは母親が腎臓の手術のために入院する予定であることを聞き、典型的なエディプス・コンプレックスを抱えていた歌手は急いでアメリカに帰国した。

また、後記にて叙述する「フレディ・クーサート」は出発時にオステンドにいなかったが、マーヴィンはフレディ氏の妻「リリアン・クーサート」に数週間後に戻るつもりだと告げた。おそらくそれは本気だったのだろう・・・

 
そして、オステンドを去ってからわずか18か月後 (1984年4月1日)、マーヴィンは再び薬物乱用に陥り、精神状態が再び悪化した。善意と悪習慣の間の押し引きに悩まされ、聖書をバッシングしていた父親によって無意識のうちに自殺した可能性が高く射殺された。

モータウンのアーティスト仲間である『スモーキー・ロビンソン』は、友人の死から数年後、インタビューで「あのときのことは何度も思い返すが、ベルギーに留まっていればよかった。」と語っている

 
父親の宗派は、ペンテコステ派の厳格さと旧約聖書の激怒を混ぜ合わせたもので、彼はこの問題に関して独特の見方を持っていた。また、彼は幼少期を通じて家庭内で暴力を目撃している。

実際にマーヴィン・ゲイは、『安楽な死』に半ば恋していた。

マーヴィン・ゲイは、1973年のアルバム『Let’s Get It On (レッツ・ゲット・イット・オン)』の歌詞の中で、「もし今夜死ぬとしたら」と歌った・・・。

今回の投稿記事において紹介しているリチャード・オリヴィエの映画『Marvin Gaye:Transit Ostend (マーヴィン・ゲイ:トランジット・オステンド)』のオリジナルテープでは、マーヴィンは後にオステンドに戻って「犯罪現場を再訪したい。」と述べた・・・。

「もちろん、まだ犯罪は起きていない。」と彼は付け加えている。

マーヴィン・ゲイは、自分の宗教的信念と性欲の間でも葛藤していた。彼は、自ら作り上げた愛人的な男のイメージに応えなければならないというプレッシャーを感じていたが、自分のライフスタイルを恥じていた。

また、早漏にも悩まされ孤独と戦うために、彼はハードコアポルノに没頭し、売春婦を訪ねた。

オリヴィエの『トランジット・オステンド』のシーンでは、彼が市内の歓楽街を巡りながら、ナレーションで「私は女性が好きだが、女性という種族は嫌いだ。」と宣言している・・・

 
ソウルのスーパースター『マーヴィン・ゲイの生涯』を振り返るとき、真っ先に思い浮かぶのは当然ベルギーではない。

ほとんどの人はそのつながりを知らない・・・。

しかし、それはオステンドの町が当然誇りに思うつながりなのだ ‼

ここに来る前、マーヴィンはどん底にいた。

彼がここを去った後、再びどん底に落ちた・・・。

オステンドは、『彼に最後の休息を与え、もう一つの逸品を作るための創造的な息抜きの場を与え、その声に最後の魔法』をかけさせた。

彼の最後の名曲がここで生まれたことは、十分にふさわしい ‼

性的であろうとなかろうと、マーヴィン・ゲイがベルギーで見つけたものは、やはり癒しだった・・・。

そして彼は常に、致命的なまばゆいばかりのLAに戻るつもりだったと思われているが、『真実は、彼は両思いだった』ということだ・・・‼
 


 

【 マーヴィン・ゲイを救ったオステンド時代の友人 】

 
1981年当時のマーヴィン・ゲイは山積みの問題を抱えていた・・・。

イギリスでのツアーを終え、面倒な離婚、多額の借金、その両方を促進するのに役立った薬物習慣、そして音楽キャリアはフェードアウトに陥り、彼の最新アルバムは批評家から酷評され、売り上げも低迷していた。

しかし、マーヴィンはロンドンに住んでいた80年代初頭、ナイトクラブでベルギー人 (オステンドの地元住民)『Freddy Cousaert (フレディ・クーサート):1937 – 1998年8月19日』との思いがけない出会いにより救助が訪れることになる・・・‼

フレディ氏の名刺を受け取った1週間後、マーヴィン自身から彼に電話をかけたもののフレディ氏は不在であったが、妻のリリアンと30分ほど話しをした。彼女はフレディ氏に「彼は落ち込んでいるようだった」と伝えた。折り返し電話すると、彼はブライトンにいるようだった・・・

 
フレディ氏は薬物摂取量が過去最低値にまで落ち込んでいた彼のキャリアを好転させるのは自分だと判断し、オステンドに移転するよう説得した。

彼によれば、「マーヴィンは雨と風、そして海の美しさが大好きでした。時々彼は海岸に行き、防波堤に座りました。私がオステンドではこれらすべてのことができ、すべてが豊富にあると伝えると、彼はすぐに2週間の訪問を決めました。」と語っている・・・

 
フレディ氏は元パブのオーナー兼ツアーガイドをしていた。しかし、何よりも彼は音楽愛好家であり、60年代初頭からロンドンの音楽シーンに足繁く通っていた・・・。

60年代には、オステンドでソウル・バンドを演奏させるナイトクラブ「ザ・グルーヴ」を経営し、そこはヨーロッパ大陸で『ブラック・ミュージックのメッカ』となった。

そして、オステンドのナイトクラブを通じ、彼はアニマルズの「エリック・バードン」「ロッド・スチュワート」といった人たちによって、イギリスの若いバンドにブルースをもたらしたと評価され、ヨーロッパでの本格的なR&B音楽の聴衆の育成に影響力を持ち、特にベルギーのブルースシーンにとって避雷針のような存在であった。

またフレディ氏は、「モハメド・アリ」をベルギーのプロモーションツアーに誘った人物でもある ‼

その後は地元にホテルを持ち、コンサートプロモーターを務め、ロックミュージシャンのマネージャーなど、さまざまな職業を営んでいた・・・。

1981年2月14日、バレンタインデーのある肌寒い朝、ベルギー北部に位置するウェスト=フランデレン州の都市「Queen of the Sea-side (海辺あるいはリゾートの女王)」へ向かうシーリンク・フェリー (サウサンプトン・フェリー) は、まさに米国のソウル・レジェンド『マーヴィン・ゲイ』が、5歳の息子フランキーとオランダ人でガールフレンドだった24歳のユージェニー・ヴィスと一緒に、ドーバーからオステンド行きに乗ったものであった・・・

 
伝記作家『David Ritz (デヴィッド・リッツ)』によれば、フレディ氏は「懸念と狡猾さ」が入り混じった心情で彼を救い出し、オステンドに招待したという。

「オステンドはマーヴィンの人生において特に重要な時期でした。そこは彼がすべてをまとめるべき場所でした。」とリッツは述べている

リチャード・オリヴィエも同意する。「マーヴィン・ゲイがここで過ごした時間を無視することはできません。それは、エルバのいないナポレオンの歴史のようなものだろう。」と彼は言う

そして、1982年の終わりまでマーヴィンの弁護士を務めたカーティス・ショーは、「間違いなくフレディ・クーサートは、マーヴィンの何年もの人生の中で最高の巡り合いだった。」と語っている・・・

 
フレディ氏の家族から温かい歓迎を受けたマーヴィン・ゲイは、最初の1週間、眠り続けた・・・。

当時42歳を迎えようとしていたマーヴィンは、フレディ氏とその家族とともに同居し、そこで数か月間暮らし、彼らが経営していたホテルで夕食を共にしながら、すぐにクーサート家に溶け込むようになった。

その後、フレディ氏は彼に3万ドルを貸し、オステンドの海岸に打ち寄せる穏やかな波を望める落ち着いた『7階建てのアパート (アルバート I プロムナード 77レジデンス・ジェーン) の5階』に住まわせた。

そして、史上最高のラブソングのひとつと考えられている『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』は、1981年から1982年まで住んでいた「アルバート I プロムナードの77レジデンス・ジェーンのアパート」で書かれたことから、2014年にはアパートの外の舗装に “「セクシャル・ヒーリングの創作発祥の地」を称賛する『記念の銘板』” が埋め込まれた。

また、薬物の大量使用を避け、地元のジムで運動し、地元の教会に通い、自信を取り戻したマーヴィンは、1981年6月13日から7月1日までの1ヶ月間のツアーを主にイギリスのロンドン、ブリストル、マンチェスターで行い、同年7月にベルギーに戻った後、7月3日と4日にオステンドのカジノ・クルサールで2回の公演を行った。

ツアーは彼の曲「Heavy Love 」にちなんで、『A Heavy Love Affair Tour 1981』と名付けられた。

コンサートの舞台となった『カジノ・クルサール』は戦後再建されたもので、当時は肩章をつけた年配のドアマンと堂々とした外観で、禁断の雰囲気を醸し出していた。

彼が演奏したカジノ・クルサールのロビーには、2004年の改修後に除幕された「チャールズ・デュモリン」がデザインした等身大の彫刻『ピアノを弾きながら音楽に没頭するブロンズ像』が、そこでの演奏とオステンド滞在を記念して設置されている。
(※ ブロンズで鋳造されたこの像には、「Charles Dumolin」 という小さな銘板が付いている)

オステンドの町は今でもマーヴィン・ゲイのことを思い続けており、おそらく最も興味深い物体は、オステンドビーチにある『マーヴィン・ゲイの大きな写真』であろう。

また、1981 年にオステンドに滞在中、マーヴィン・ゲイはアルバート 1 プロムナードにあるバー『Turban Florido (ターバン・フロリド)』を頻繁に訪れていた。バーには現在も、フレディ氏と遊歩道に写った写真が飾られている。

フレディ氏によれば、「私たちは彼のためにアルバート I プロムナードの77 番地にある海辺の自宅アパートを用意し、まるで家族の一員であるかのように世話をしました。その2週間が1ヶ月に変わり、私たちは友人になり、その後ビジネスパートナーになりました。彼が徐々に昔の自分に戻ってきたので、私は彼のためにツアーを企画し、オステンドのカジノ・クルサールでのコンサートをハイライトにし、国営テレビで直接放送しました。そして、残りは歴史になった。」と後に回想している・・・

 
フレディ氏との出会いを機に、ベルギーの海沿いの町オステンドに移住し、コカイン依存症から立ち直り、伝記作家の「デヴィッド・リッツ」とともに、マーヴィンのカムバック曲 (代表曲の一つ)であり、史上最高のラブソングのひとつと考えられている『Sexual Healing/セクシャル・ヒーリング (1982年)『Midnight Love』収録)』をレコーディングしたのである・・・‼
 

実のところ、「セクシャル・ヒーリング」の歌詞がどのように考案されたかについては議論がある

デヴィッド・リッツによると、彼はマーヴィンの本棚でSM漫画のような本を何冊か見たことがあり、これにうんざりしていたリッツはマーヴィンに「性的な癒しが必要だ。」と告げたという。リッツはその後、マーヴィンが彼に詩を書くように言ったと主張した。しかし、この話にはゲイの友人、家族、ミュージシャン仲間が異議を唱えた。

マーヴィンはオステンドの公演後にツアーを終了し、ツアーミュージシャンのゴードン・バンクスとオデル・ブラウンの2人とともにオーステンデに残っていた。

1994年のHUMOとのインタビューでフレディ氏は、「ソングライターはマーヴィン・ゲイとオデル・ブラウンだけだ。」と主張し、「リッツの貢献はタイトルだ。」と述べた。

フランキー・ゲイの回想録『マイ・ブラザー・マーヴィン』の中で、歌手の兄はリッツから「あなたはセクシーなだけではなく、あなたの音楽は癒しだ」と言われ、ゲイに自分で歌詞を書くよう促したと主張している。

ゴードン・バンクスは2012年にアトランティック紙に対し、「マーヴィンとリッツの会話はマーヴィンのSMコレクションとは何の関係もなく、マーヴィンがアムステルダムの歓楽街に興味をそそられていたためだ。」と語った。

これに対しリッツはマーヴィンには性的癒しが必要だと答えたが、ゴードン・バンクスは次のように述べた。

「彼はその曲の創作とは何の関係もありませんでした。」

オデル・ブラウンはリッツに会ったことはなく、「リッツはローリング・ストーン誌のインタビューのために来ただけだと思っていた。」と述べている。

マーヴィン自身はリッツが曲のタイトルを思いついたことを認めたが、リッツは部分クレジットを求めてマーヴィンを相手に1500万ドルを訴えた。しかし、マーヴィンの死後、リッツは遺産相続人と和解し、最終的には功績が認められたが、証拠不十分のため1983年に彼の訴訟は取り下げられた・・・

 
それはすぐにシングル・チャートでNo.1に到達し、記録的な10週間を記録した。そのミュージック・ビデオは、オステンドのアールデコ様式のコンサート・ホール「カジノ・クルサール」で撮影された。

またフレディ氏は、マーヴィンが米国に帰国する前、1982年3月23日に移籍したCBSコロムビア・レコードとの新しい契約に署名することにも関与していた・・・。

マーヴィン・ゲイとの関係が終わった後にも、ボビー・ウーマック、カーティス・メイフィールド、ルーファス・トーマス、アイザック・ヘイズなど、米国の大物アーティストのツアーマネージャーとしてプロモーション活動を行った。

そして、1998年8月にブルージュでバイクのクラッシュ事故にて亡くなった。

半分避難し、半分亡命したオステンドでの18か月間は、フレディ氏の献身的な救出劇により、 “ 崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』” にとって新たなスタートとなったのである・・・‼
 


 

【 80年代で最も成功した楽曲『セクシャル・ヒーリング』 】

 
1983年2月23日、第25回目を迎えたグラミー賞の舞台の袖にマーヴィン・ゲイは立っていた。

過去にもグラミー賞にノミネートされたことは何度かあった・・・。

1969年には「I Heard It Through the Grapevine/邦題:悲しいうわさ」が、1972年には「What’s Going on/邦題:愛のゆくえ」や「Save the Children」がノミネートされ、以後「Let’s Get It On」、「I Want You」と新作を発表する度に会場に足を運ぶも、マーヴィンはただの一度も、『グラミーの栄誉』を手にしたことはなかったのだ・・・

 
羨望(せんぼう)と悔しさを抱きながら、20年以上も追い求めていた賞の授賞式、黒のタキシードに黒の蝶ネクタイ、胸にはシルクの白いポケット・チーフを覗かせながら、マーヴィンは中継のTVカメラに向かって満面の笑みを見せていた。

そして遂に、『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』によって、マーヴィン・ゲイは初となる「最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス」「最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス」を含む2つのグラミー賞を受賞したのであった・・・‼

1982年10月リリースの大ヒット曲『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』は、1982年11月1日に生前リリースされたマーヴィン・ゲイの最後となる17枚目のスタジオ・アルバム『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』に収録され、いくつかの音楽業界の賞を受賞した・・・。

● Midnight Love (1982年11月1日リリース)

 
1981年の最後の数か月のうちに、マーヴィンが音楽的復帰とモータウンからの脱退を計画しているとの知らせを受けて、いくつかのレーベルがレコード契約を持ちかけた。彼は最終的にCBSレコードを受け入れ、コロンビアと3枚のアルバム契約を結んだ。

マーヴィンは契約が決まる前の1981年12月からブリュッセルで新しいアルバムの要素のレコーディングを開始していた。マーヴィンは、個人的なアルバムを書いたことでレコード購入者や大勢のファンを遠ざけてしまったと考え、彼らを取り戻すために、より主流の音楽を録音しようと努めた・・・

 
前作のアルバム『In Our Lifetime (イン・アワ・ライフタイム)』のように内に目を向けるのではなく、コマーシャルなサウンドを選択した理由を説明する中で、マーヴィンは次のように説明した・・・。

「今度はヒットを逃すわけにはいかない。」

 
そして、アルバムの音楽に関して、マーヴィンは記者に次のように語った ‼

「ある意味では、これはパーティーの記録だ。踊ったり、夢中になったりできるレコードだ。しかし、注意深く耳を傾け、表面の下に潜ってみると、私の心が話しているのが聞こえるでしょう。狂気を忘れて、愛に導かれる時が来たという私の心の声が聞こえるでしょう。私がまだイエスを信じていること、神の奇跡的な恵みを今でも信じていること、たとえ自分自身を許せないときでも主が赦してくださると今でも信じているという私の証言を聞いてください。」

 
確実に調子を取り戻したアルバム『ミッドナイト・ラブ』は、全編ベルギーで書かれ録音された・・・。

ヨーロッパでは、スターがクリエイティブな健康を取り戻すのに役立った登場人物たちが、依然としてほとんど過小評価されており、ベルギーのミュージシャン達によるジャムが『ミッドナイト・ラブ』の起源となったのだが、アメリカから飛行機でやって来た経験豊かなセッション・プロに置き換えられてレコードに残された・・・。

フレディ氏は当時、マーヴィンとよくジャム・セッションをしていたベルギーのキーボーディスト『Donald Pylyser (ドナルド・ピライザー)』と同様に、地元で26歳のギタリスト『Danny Bossaer (ダニー・ボッサール)』を連れてきた。

「ある夜、マーヴィンは夕食を作っていました。私は少し袖口から遊んでいました。そしてマーヴィンは私に、ねえダニー、遊び続けろ! どんどん遊んでくれ! ダニーを弾き続けろ!」

それが “ Rockin’ After Midnight ” という曲になった。

「僕は基本的にロック・ギタリストだったから、この曲はそう呼ばれているんだ。」

しかし、ボッサールはその貢献に対してクレジットやロイヤリティを受け取ることはなかった。

「ごめんなさい、マーヴィンは私の苗字を知らなかったんだ。僕はダニー・アッシュとしてアルバムに参加しているんだ。」とオランダの日刊紙「De Pers」にて語っている・・・

 
マーヴィン・ゲイの “ 生前にリリースされた最後のアルバム ” であり、モータウン脱退後、1982年3月に契約した “ コロンビア・レーベルでは最初のアルバム ” となる『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』は、米国で『トリプル・プラチナ認定』された。

ローリング・ストーン誌の1980年代ベストアルバムリストでは37位にランクされ、NMEは1982年にこのアルバムをアルバム・オブ・ザ・イヤーに選んだ。

当初、ローリング・ストーン誌の評論家「Dave Marsh (デイブ・マーシュ)」は『ミッドナイト・ラブ』の “ 論考と批評 (レビュー) ” において、このアルバムをカムバックとして見なすことを「非常に傲慢」と呼び、「まるでゲイが商業的に絶頂期を迎えてからわずか10分しか経っていないかのように、 1973年の “ レッツ・ゲット・イット・オン ” から単に再開しているだけだ。」と述べたが、アルバムは成功したカムバックだとは述べた。

しかし、同誌の『80年代ベストアルバム』のリストにランクインした後、このアルバムは「最も偉大なソウルシンガーの一人による、インスピレーションに満ちた成熟した作品であり、間違いなく80年代最高のソロアルバムの一つである。」と再評価 (論考と批評を訂正) した・・・。

● 注釈:『ポストクリティーク』/ 論考と批評について

わたしたちが慣れ親しんできた『クリティーク=批評』には、表面に書かれている/写っているものを疑い、その内奥や深層に隠された欲望や無意識を暴き出すような手つきを備えたものが少なくない。

しかし、果たしていま「批評」は機能しているだろうか・・・❓ 

ポスト・トゥルース時代において「批評」は一般に認められている事実や常識を疑ってみせ、『もう一つの真実』という名の陰謀論を補強することに使われている。

これまでの批評にあった世界の見方や思想の限界をとらえ直し、これからの道を模索する『ポストクリティーク』への議論は、今や本格化している・・・(※ 興味のある方は『批判の行方:ポストクリティーク/いま批評には何ができるのか』を参照頂きたい。)

80年代までの時期は、音楽専門誌に限らず、多くの雑誌が音楽に関する論考を取り上げる傾向が見られたが、そのような音楽論に対する興味は、何故か、90年代を境として、急速に失われていった(少なくとも、流行らなくなった)。

上記は、作曲家にして批評家の近藤譲氏が小論をまとめた著書『音を投げる』のあとがきで語られた一説であるが、近藤氏が語る「音楽論に対する興味」が失われていった時期は80年代の終わり以降、つまり平成の始まりである。

また、日本の批評家・哲学者で小説家でもある東浩紀氏は、著書『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』などの文章中で、現代を「過視的な時代」と定義している。そこでは想像的なものと象徴的なものがすべて同一の視覚的平面に現れるという。パーソナルコンピューターの所持は今や世代問わず普及し、このような時代精神とその文化的展開についての考察を社会論やサブカルチャー論でも展開し、それらの試みはゼロ年代批評へとつながっていった。

ゼロ年代の批評においては、アーキテクチャ派/コンテンツ派という区分が存在した。『アーキテクチャ派』とは、文化や作品を生み出す外在的な制度やシステムを論じる立場・方法のことであり、『コンテンツ派』とはアーキテクチャから生まれてくる作品を内在的に分析する立場・方法を意味する。興味深いのは、平成の音楽批評で起こった音楽批評の衰退の中心は、現代の「現代音楽」を記述するコンテンツ派の消滅を意味するということである。

コンテンツ派的な音楽論でいえば、80年代のなかばから英米の音楽研究者のあいだで展開された音楽研究に『ニューミュージコロジー』という分野があるが、それらはジェンダー論やポストコロニアル批評などの手法をもちいて伝統的な音楽作品を「読む」ことを実践している。

近年、音楽家にして批評家の菊地成孔氏は、バークリーメソッドを中心とする音楽理論に基づいた論述によってジャズ評論の基盤を再形成しているほか、音楽批評のあり方を拡大し、映画やファッションショーにおける音楽を音楽として批評する方法を模索している。あるいは音楽家・音楽プロデューサー・作曲家・編曲家の冨田恵一氏の著書『ナイトフライ(2014年)』のなかでは、ドナルド・フェイゲンの同名の音楽アルバムに対して録音芸術固有の仕方でもって鑑賞・批評が行われている。

ポスト平成から令和(現代)の音楽批評に求められるものは、現代において取り残された現代の「現代音楽」を、『聴覚型のアーキテクチャ論を参照しながら論じるコンテンツ派批評』なのかもしれない

 
そして、マーヴィン・ゲイの初となる「最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス」と「最優秀R&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス」を含む2つのグラミー賞を受賞し、アルバム最大のヒットシングル『Sexual Healing (セクシャル・ヒーリング)』は、標準的な45 RPMシングル・フォーマットで200万枚以上を売り上げ、アメリカレコード協会から「プラチナ認定」を受け、デジタル・セールスは500,000ダウンロードに達し、2005 年に「ゴールド・シングル」として認定された。マスタートーンとしてもリリースされ、このフォーマットは2007年に「プラチナ認定」された・・・‼

● Sexual Healing (1982年10月リリース)

[ 80年代で最も成功した楽曲『セクシャル・ヒーリング』]

 
マーヴィンによるこの曲のパフォーマンスは、1994 年にコンピレーション・アルバム『グラミー賞グレイテスト・モーメンツ Vol. I』にも収録されている。

また、アメリカンミュージック・アワードでは、この曲が「フェイヴァリット・ソウル/R&Bシングル」として表彰された。

この曲はいくつかの国でチャートのトップとなり、ビルボードのホットR&Bシングル・チャートで第1位を獲得し、10週間トップの座を維持した。Hot 100でも同様の成功を収め、最高3位となり、18回目で最後のトップ10ヒットとなった。この最高3位でマーヴィンは、Hot 100チャートの歴史上、ヒット曲をチャート上の1位から10位までの各順位で最高位にした2人目のアーティスト(アレサ・フランクリンに次ぐ)となった。

ビルボードの他のコンポーネントチャートでも成功を収め、ホットダンスクラブプレイチャートでは12位、ホットアダルトコンテンポラリーチャートでは34位に達した。

またカナダのRPMチャートで1位を獲得し、英国のシングル・チャートとオーストラリアのケントミュージックレポートでも最高4位を記録した。ベルギーのウルトラトップ 50チャートでは2 位になった。ニュージーランドの RIANZ チャートでも 1 位を獲得し、6 週間トップの座を維持した。オランダのダッチ・トップ40で3位に達し、アイルランドのアイリッシュ・シングル・チャートでも7位に達した。

他の国での成功はもっと控えめで、西ドイツのメディア・コントロール・チャート、スイスのスウェーデン・シングル・チャート、イタリアのイタリアン・シングル・チャートでは23位、17位、37位に達した・・・。

1984年のグラミー賞では、アルバムはマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」に敗れ、最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス賞にノミネートされた。

アルバム最大のヒットシングル『セクシャル・ヒーリング』は前年に2つのグラミー賞を受賞したが、マーヴィンが生涯で受賞したのはその一度だけであった・・・

 
最終的に『セクシャル・ヒーリング』は、全世界で600万枚以上を売り上げ、1980年代で最も成功したR&Bシングルとなった・・・‼

実際には、マーヴィンがベルギーで作った音楽の陽気でファンキーな雰囲気は、当時インタビューで彼が語った心の闇をほとんど反映していない。

しかし、その主題である『セクシャル・ヒーリング (官能の救いの力)』は、彼の「厳格で保守的な宗教的教育と、一方では彼自身の衝動や不安なアイデンティティとの間の生涯にわたる葛藤」に端を発している ‼

不意にマーヴィンが語った生前の言葉が筆者の脳裏に浮かんだ・・・。

「アーティストは真実を愛し、真実を恐れない。そして真実を表現するとは神の領域に近づくということでもある。神がかった人格・・・狂気を孕んだ真実。狂気と真実とは物事の両面であり、どちらか一方だけをというわけにはいかない。」

 
そこには、彼が非常に『メタファー (比喩)』を好んだ語り口が伺える・・・。

一説では、この曲のインスピレーションをオランダの情報源から得たとも言われている。1980年から1982年にかけて、オランダのユージェニー・ヴィスはマーヴィンの人生に関わった女性の一人で、マーヴィンはこの曲を彼女に捧げたとも言われている・・・

 
まさしく彼はそれを美しく歌ったが、この曲で歌っている歌詞のメッセージを完全には表現できず、体現としての「癒し」も決して得られなかったのだ ‼
 


 

【 論 考 Ⅰ: “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』の誕生 】

 
1984年にマーヴィン・ゲイが父親に射殺されたとき、世界は偉大な歌手の一人を失った ‼

彼のファンは唖然としたが、コカインがマーヴィンに引き起こした暴力を知っていた歌手の友人たちは、殺人犯が正当防衛で行動したと判明したことに驚かなかった・・・。

1981年2月14日からベルギーにおける18か月の滞在は、マーヴィン・ゲイの人生において極めて重要な時期であり、オステンドの風が吹きすさぶ遊歩道は、数百万ドルのレコード契約の背景となったものの、同時に3つの関係の崩壊を促し、内部抗争を引き起こすことになった。

この旅行はマーヴィンのキャリアを再燃させることになるが、同時に彼を狂気と非業の死に導くこととなったのである。

それはいみじくも、1982年10月にベルギーを去った18か月後の出来事であった・・・‼

実のところ、今回 (2024年3月30日) のBBCニュースによる、『Marvin Gaye:Never-before heard music surfaces in Belgium (マーヴィン・ゲイ:これまで聞いたことのない音楽がベルギーで再び浮上)』という報道から今日に至るまでの間、筆者は「大いなる喜び」に胸躍ると同時に、幾つかの疑問や数々の考察に頭を悩まされる日々が続いた。 (※ 実は今も続いている。)

そして、ようやくたどり着いた「唯一の命題」・・・それは、没後40年の時を経た今、80年代当時において “ 崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』” が、アーティスト (音楽人生) としての再帰と栄光を掴むに至った楽曲『セクシャル・ヒーリング』と、それに纏わる数々の伝記やその文脈等で語られてきた『セクシャル・ヒーリング 物語』(マーヴィン・ゲイ個人の晩年人生) の『新たな展開が再び浮上』してきたことにより、再評価が迫られているとの認識に至ったのである。

つまり、マーヴィン・ゲイがオステンド滞在中に作曲家からアーティストに転向したベルギー人の『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン)』に贈られ、40年以上隠されていた宝庫『マーヴィン・ゲイの贈り物』の出現によって、これまで語られてきた『セクシャル・ヒーリング 物語』を新たに再構築しなければならない事態に発展する可能性を孕んでいると言うことを示唆している・・・

 
今回、そのカギを握る「重要な宝庫」の一つが、マーヴィン・ゲイによるこれまでに聴いたことのない『デモ音源 (未発表曲66曲のデモが収録されているとされる30本のカセットテープ) 』であり、物語の再構築に多大な影響力を与えるであろう「最も重要な宝庫」が、『マーヴィンの個人的な思いが詰まったノート (120冊を超えるユニークな回想録)』であると筆者は確信している。

それらの開示によって『セクシャル・ヒーリング 物語』は、従来の「客観的事実に基づく物語」の文脈に「主観的真実性を反映した物語」を抱擁 (抱き込む) することで進化 (あるいは真価) を遂げ、より実物大の崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』の真実と本質に迫る伝記に生まれ変わるであろう ‼

その物語は、これまで語られてきたストーリー (伝記やその文脈等) を無下にするような『 “ 新説 ” の物語』ではなく、誰をも何をも傷付けることのない、それらを「超えて含む」、 “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』の誕生を意味している・・・。 (※ 筆者は熱望している。)

そのような命題を踏まえた上で、BBCの報道以外の投稿記事については、「従来周知されてきたコンテクスト (著名な二冊の書籍など)」で語られてきた内容を再確認しながらも、『マーヴィン・ゲイの人生』において特に重要な時期であった、ベルギーの気取らない海辺のリゾート『Ostend (オステンド) に残されてきた数少ない『コンテクスト (新聞や雑誌のインタビュー記事、Web情報などを含む)』を基に、叙事的とも叙情的とも言うべき書きっぷりにて叙述させて頂いた。

● 注釈:『コンテクスト・リテラシー (Context Literacy)』とは

思いは伝わらなくては意味がないし、価値も生じない。主義・思想・哲学・イデオロギーなど、読者に伝えるべきは「テーマ性」などではない。ひとりよがりな思いだけが先だったコミュニケーションは、たいてい全体主義的「ファシズム」になる。どんな御大層な思想も、伝えられなければ価値はなく、思いは他者に伝わってこそ、はじめて意味あるものになる。

書き手が伝えるべきは、「テーマ」ではなく、『コンテクスト』である・・・

『コンテクスト』とは、文脈や背景、前後関係のことを指す。日本人は、行間を読むのがうまいと言われるが、それは、日本文化がコンテクストを理解する能力がないと生きていけないことの裏返しでもある。『リテラシー』とは、英語のリテラシー(literacy) がもともとの言葉で、そもそも「読み書きができる識語」という意味である。そこから、知識を持ち合わせていること、様々な分野に関して長けている、知識があるという風に使われるようになった。

あうんの呼吸が通用する文化を「ハイ・コンテクスト(high-context)」といい、対照的にいちいち全て背景から説明しないと気がすまない文化を「ロー・コンテクスト(low-context)」という。

「ハイ・コンテクストな社会」では、仲間内などの人脈が極めて重視される。会社とプライベートの区別が弱く、あまり野暮なことを聞くと嫌われてしまい、根回し力、雰囲気を察する能力、空気を読む能力が求められる(日本、中国、中東、仏、伊、スペインなど)。「ロー・コンテクストな社会」では、言葉できちんと説明しないと気がすまない。会社とプライベートは明確に区別する(北米、イギリス、スイス、ドイツ、北欧など)。

日本はハイ・コンテクストな文化だが、一方でマニュアル大好きで、規制・許認可でがんじがらめの一面も持ち、みんなできちっと規則を定めないと、日本民族は気持ちが落ち着かない。中国も日本と同様にハイ・コンテクストな文化を持つが、マニュアルは嫌いで、政府やお役人を信じない、徹底的な個人主義を貫くことから日本とは対照的である。

この世界には、一見無関係に見えるものが裏ではつながっているということがよくある。裏側も視野に入れて見ないと状況はつかめない。しかし、裏側と言っても浅い深いがあり、浅いものは対症療法と呼ばれるものに近く、深いものは東洋医学のようにホリスティックに対象をとらえる。

筆者は、裏にあって表側に影響を与えている深く本質的な仕組みを『コンテクスト』と呼んでおり、大きく分けて「自然的コンテクスト」、「社会的コンテクスト」、「精神的コンテクスト」の3つの側面があると考えている。

科学にも自然科学、社会科学、人文科学の3つの分野がある。しかし実験室を舞台とする科学に対し、日常生活においては、途中までは科学的思考を利用するが、あるところからは日常感覚の直感に従い、科学が限定している範囲を超えて裏側を想定することが可能である。なぜなら、日常世界は、やがて科学で証明されることになる仮説が生まれる場であるからだ。

さらには生活のとらえ方も、私たちが生きている世界としてではなく、私たちが生かされている世界としてとらえ、世界を客体化せず、そこに依存する一部の存在としてとらえることも可能である。その、私たちを活かしている世界の表面世界の背後にあるマクロな自然からミクロな自然へ至る、連続性や関連性、それらを貫通する働き、そして日常の表層意識に常にひそかに影響を与え続ける深い意識や、さらにもっと深い意識の存在など、日常の土台となっている仕組みをここでは『コンテクスト』と呼んでいる。

そして、『コンテクスト・リテラシー』というのは、浅いものから深いものまでさまざまなレベルがあるにせよ、そういう仕組みを認識し、読み解き、気づき、表現する能力のことである

 
決して「叙述トリック」のような、読者の先入観や思い込みを利用し、一部の描写をわざと伏せたり曖昧にぼかしたりすることで、筆者が読者に対してミスリードを仕掛けるつもりは一切ない ‼

ただし、マーヴィン・ゲイがここで過ごした時間を無視することができない筆者としては、その意図を持って “「優美さ」に傾倒した『セクシャル・ヒーリング 物語』” として描写していることは認めざるを得ない・・・。

今回の記事を投稿するにあたり、その一端として見出しのサムネイル画像に採用した写真には、マーヴィン・ゲイと写る右側の人物に、BBCニュースで報じられたベルギーの音楽家『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン)』ではなく、81年にオステンドに招待し、マーヴィンを救い出した重要人物である『Freddy Cousaert (フレディ・クーサート) とのツーショット写真 (1982年)』を敢えて採用させて頂いた。

そこには、マーヴィン自身が「ベルギーがどこにあるのかさえ知らなかった、しかし神の手に委ねた」と後に言わしめた人物・・・「いみじくも現実的」に、あるいは「こく明にはつらつら」と、もしくは「磨かれた芸術性を以て単純素朴」に、従来の『セクシャル・ヒーリング 物語』と “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』の誕生を創発する上において欠かせない人物『フレディ・クーサート』への深い敬意を表する筆者の思いが込められている ‼

マーヴィン・ゲイの『セクシャル・ヒーリング 物語』におけるフレディ・クーサート氏とオステンドの役割について、冷笑的になったり軽視したりするのは簡単だが、それはある程度の正当性を持ってその地位を獲得している。

フレディ氏は「ベリー・ゴーディ」ではなかったが、新しい友人を地元のミュージシャンと結びつけ、レコーディングの時間や仕事上のつながりを作り、最終的にはマーヴィンが60年代半ばから縛られていた「モータウン」との契約から抜け出す手助けをし、多くの人がマーヴィンの背後にあると感じていた『創造性と信頼性の爆発』を促した。

最終的にはビザの問題だけが、身なりを整えたマーヴィンを米国に強制的に帰国させた ‼

しかし、この物語は少し暗い結末を迎える・・・。

マーヴィンの最後のレコードであり、確実な復帰作であるアルバム『Midnight Love (ミッドナイト・ラブ)』は、ベルギーで作曲され、レコーディングされた。

その夢のような実現に向け尽力してきたフレディ氏は、アメリカ人の側近がマーヴィンのアルバム『ミッドナイト・ラブ』のレコーディングのためにベルギーに足を踏み入れたときからマーヴィンの滞在の終わりまでに関係は悪化していた。

ヨーロッパでこのスターが創作面で健全な状態に戻るのを助けたキャスト陣は、ほとんど評価されず、『ミッドナイト・ラブ』の原点となったジャムセッションをしていたベルギーのミュージシャンは、レコードではアメリカから飛行機でやって来た熟練のセッション・プロに置き換えられた。

フレディ氏においては、その仕事にもかかわらず、プロモートしたギグ以外ではソウルの伝説との関わりからほとんど金銭的な見返りを受けなかった。

そしてマーヴィンはベルギーに戻ることはなく、ベルギーで過ごした時間を本当に認めることもなかった・・・。

またフレディ氏の名前は、『Midnight Love』のクレジットにないことでも目立つが、当時の事情をよく知る彼の娘「ミシェル」はあるインタビューの中でこう述べている・・・。

「それは残念です。父がいなければ、この記録は実現しなかったでしょうから。」とミシェルは切り出し、「あの男はイギリスの地で、麻薬をやっていた。父は彼をここに連れてきて、すべてを手配し、運動させ、よく食べさせ、健康的な生活を送り、麻薬も女性も悪い人も寄せず、正しい道に戻らせました。父はCBSの大ボス、ラーキン・アーノルド (当時CBSの弁護士兼副社長) に、マーヴィンのコンディションを見るためにオステンドに来るように頼んだ。なぜなら、彼らは彼をあきらめていたからだ。そしてアーノルドは、オーケー、レコード契約を結ぶつもりだ、と言った。私の父はあの瞬間にマーヴィンを救った、そうでなければ彼はすぐに死んでいたかもしれない。」

フレディ氏自身も、「あの時、誰かを雇って破壊してもらうこともできたのに・・・考えてみたことがあるんだけど、わかるか?」と、憤慨したフレディ氏は1988年に「Oor」に打ち明けている・・・

 

悲しくも美しく “ マーヴィン・ゲイの影に生きた男 ” フレディ氏にとって、『ゴールド・レコード』、それこそが彼がやり遂げなければならなかったものだった ‼

それは現実のものとなり、現在においても人々の記憶から忘れ去られることはない・・・。

もし筆者が、 “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』を叙述するとしたならば、あくまでも主役であるマーヴィン・ゲイに再び光をもたらした「フレディ氏の献身的で執念とも言える強い情念」に先ずは強力なスポットを当て、この物語に内包する『最大度の崇高』を浮かび上がらせることを前提とした叙事叙情から物語を紡いで行くこととなるだろう・・・。

つまり、『恐るべき対象物 (「曖昧」と「欠如」と「闇」を抱えていたマーヴィン・ゲイ) 』とかかわり合って恐怖に類似した仕方で作用したものは、何によらず「崇高の源泉」であった『マーヴィンの悲壮』であり、それゆえに「崇高が恐怖と紙一重」になって、心が感じうる『最も強力な情緒』を生み出す物語・・・それこそがほかならぬ “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』であり、その舞台の幕開けを首尾一貫にして網羅的に実現可能にすることが出来た人物こそ、他ならぬ『フレディ・クーサート』だと筆者は観るからである

 
結果的に誇り高きマーヴィンは、フレディ氏に頼って生きていかなければならないことに憤りを感じ始め、滞在の終わりまでには関係が悪化した・・・。

しかし、悲劇の主人公マーヴィン・ゲイ、その彼を救い出したフレディ・クーサートもまた、『崇高さの中の悲壮=悲壮の中の崇高さ』と言う「悲しい中のりりしさ」「悲痛な気持を内にひめた勇ましさ」を持ち合わせ、そこへの類似と共感があったからこそ、崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』のキャリアを再燃させることに至らしめたのだと筆者は考察する ‼

● 注釈:『美的範疇 (Aesthetic Categories)』について

美とそれに類する諸概念(優美、崇高、悲壮、滑稽、わび、さびなど)の総称。美の多様で特殊なあり方を特徴づける類型概念であり、美的対象を述語づける形容詞を名詞化したものである。

美的範疇においてこの『セクシャル・ヒーリング 物語』は、ショーペンハウアーが「最大度の崇高」を「悲壮」とみなしたように、単純な悲しさではなく、『価値ある人物の没落』に関係すると筆者は捉えている。

すなわち悲劇の主人公が、彼を侵害し、破滅させようとするもろもろの原因より『高い価値のにない手』であり、かつ彼の没落が人間や世界の本質的構造から必然的に生じ、いかなる力をもってしてもこれをとどめえない場合や、没落が超越者の介入によって生じるとき、罪なき破滅や悲運も『悲壮なもの』として現れるのである

 
アルバムが成功し、最後の傑作『セクシャル・ヒーリング』をリリースしてツアーに復帰したマーヴィン・ゲイは、再び深刻なコカイン中毒に陥り、過酷なツアースケジュールの中でますます妄想症に陥っていった・・・。

そして、オステンドを出てからわずか18か月後、マーヴィン・ゲイはクリスマスプレゼントとして贈ったピストルで父親を胸に撃つようそそのかした。

マーヴィン・ゲイが死に際に弟のフランキーにささやいた『最後の言葉』は、次のように伝えられている。

「私は自分のレースを走り終えた…もう何も残っていない。」

 


 

【 論 考 Ⅱ:そして物語は『マーヴィン・ゲイの暗号物語』へ 】

 
今回浮上した『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる話し・・・『その信憑性への疑問』・・・何故ゆえ「フレディ・クーサート」を通じ、モータウンの世界的スターと接触した「チャールズ・デュモリン」のその手に、数々の『宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産と所縁の品々)』が贈られ、それらが誰にも知られることなく『40年以上隠されていた』のだろうか・・・。

言い換えれば『何故ゆえ (その経緯、動機、意図)、マーヴィンはデュモリン氏にそれらを託した』のだろうか ❓

ここ数十年の間、『マーヴィン・ゲイの伝記』として多くの人々に周知されてきた代表的な書籍においても、驚くことに「チャールズ・デュモリン」についての詳細な記述は一切確認できない・・・

 
中でも、ローリング・ストーン誌で働いていた38歳のジャーナリスト『David Ritz (デヴィッド・リッツ)』とマーヴィン・ゲイのオステンドでの会話は、彼の著書『Divided Soul (ディバイデッド・ソウル)/邦題:引き裂かれたソウル』の中心部分となり、この歌手の決定的な伝記として広く知られている。

著書『Divided Soul (ディバイデッド・ソウル)/邦題:引き裂かれたソウル』は、リッツが共著したレイ・チャールズの自伝をマーヴィンが見た後、マーヴィン本人からアプローチを受けて書かれたもので、二人は数年前にロサンゼルスで頻繁に話し合ったものの、音信不通になっていたリッツは「何が起こっているのか」を見るため、1982 年 3 月にオステンドに行くことにした・・・。

彼の著書『Divided Soul:The Life of Marvin Gaye/(邦題) マーヴィン・ゲイ物語:引き裂かれたソウル』は、70年代後半にマーヴィンと出会ったときに始まり、アルバム『ミッドナイト・ラブ』のプロモーションで米国ツアーに出た1983年まで、伝記についての会話を続け、マーヴィンの死の翌年の1985年3月に出版された。

● アメリカの伝記作家『デヴィッド・リッツ』

1943 年12 月2 日ニューヨーク生まれの『David Ritz (デヴィッド・リッツ)』は、音楽ジャーナリスト、伝記作家。幼少のころからジャズに傾注し、その後ソウル、R&B に熱中した(左肩には「Jazz」、右肩には「RHYTHM & BLUES」と刻まれた入れ墨がある)。音楽バイオグラファーとして、『わが心のジョージア:レイ・チャールズ物語』、『魂の宿る街ニューオーリンズから:ネヴィル・ブラザーズ自伝』ほか、アレサ・フランクリン、BB キング、ナット・キング・コールなど多数のミュージシャンの伝記本を執筆。

 
また、マーヴィン・ゲイの国際的な名声にもかかわらず、彼の並外れた人生、あるいは死について描写しているのは、デヴィッド・リッツの『Divided Soul (ディバイデッド・ソウル)/邦題:引き裂かれたソウル (1985年)』だけではない・・・。

徹底した調査と未発表の事実により、イギリス生まれの『Sharon Davis (シャロン・デイヴィス)』によって “ 巧みに語られた「マーヴィン・ゲイの伝記」を手放すのは難しい ” ものになっている ‼

彼女は当初、1982年6月にこの企画に着手したが、出版社の意向で本の内容は厳密にマーヴィンの仕事面だけに限定された。そのため、10年間の重要な記事をはじめ、集めた資料の多くが使われることなく、ほこりをかぶることになった。

この本は、1984年1月1日にペーパーバックにて発行された後、マーヴィンが亡くなって間もなく出版され、6か月間店頭に並んだあと絶版になった。

やがて本の権利が彼女の手に戻ると、最初の原稿をほこりとともに掘り起こし、それをベースにして新たに多くのインタビューを行い、さらに広範囲な調査をした。

そして1991年1月1日、遂に執念とも言える徹底した調査と未発表の事実により、「シャロン・デイヴィス」によって巧みに語られた著書『I Heard It Through the Grapevine:Marvin Gaye/(邦題) マーヴィン・ゲイ:悲しいうわさ』が出版された ‼

著書の冒頭で彼女は、初めてマーヴィンに会った時の心境についてこう述べている・・・。

「彼は気難しい人だと聞かされていたので、わたしは非常に緊張した。彼には本当に親しい友達というのがほとんどなく、彼の心に入り込めた人間は数えるほどしかいなかった。わたしは自分がその数少ない、選ばれた者の一人だと言うつもりはない・・・確かにはじめは、つらい登り坂だった。だが、苦労して一歩一歩登る甲斐はあった・・・最後には、彼の信頼と関心を得られたのではないかと思いたい。」

 
そもそも、デイヴィスのこの著書の発案者はマーヴィン本人だった ‼

彼は1981年に、彼女にこのアイディアを口にした。その後両者はだんだん疎遠になり、一緒に仕事をする機会がなくなった。

マーヴィンがこの企画を最後まで見届けることはなかった。それでも、彼の最初の勧めがなかったら「わたしはきっと筆を執らなかったと思う」と彼女は語っている・・・。

● イギリス生まれの著作家『シャロン・デイヴィス』

イギリス生まれの『Sharon Davis (シャロン・デイヴィス)』は、「Motown Ad Astra (モータウン・アド・アストラ)」の陣頭指揮を執る前にフォー・トップスのファンクラブを運営し、モータウンの全出演者に対応するほか、社内雑誌「TCB」の編集をしていた。

ロンドンのモータウン・レコードに入社する前は、「ファンタジー」「スタックス」「サルソウル」の広報担当者を務めていた彼女は、自身のプレス/プロモーション会社「Eyes & Ears」を設立し、「Blues & Soul 誌」とウェブサイトの特集編集者として働き、フルタイムの著者および研究者になった。

シャロンは現在までに、『Motown: The History』や『Diana Ross: A Legend in Focus』、また『Stevie Wonder: Rhythms of Wonder』(ペーパーバック、新書)および 60 年代、70 年代、80 年代のチャートトップのヒット曲に関するシリーズなど、数十冊の本を執筆しており、ダイアナ・ロスの自伝『Secrets Of A Sparrow』の執筆も支援した。

特にシャロン・デイヴィスは、マーヴィン・ゲイのレコード会社「タムラ・モータウン」とその伝説的な社長「ベリー・ゴーディ」との激しい関係など、彼の並外れた、しばしば波瀾万丈なキャリアを興味深い詳細に描いている。

彼女は芸術的独立を求めるマーヴィンの闘いを追い、「Can I get a Witness」や「I Heard it through the Grapevine」など、シングルでの彼の成功について詳細に説明している。

そして、画期的なアルバム「What’s Going On」、「Sexual Healing」、それ以降までのストーリーまで、当時最も独創的な音楽の才能の一人である『マーヴィン・ゲイ』の素晴らしい伝記によって、「モータウンの歴史の第一人者」として広く認識され、現在ではモータウンとそのアーティストに関する知識を常に求められる存在である。

 
シャロン・デイヴィスによって巧みに語られた著書『I Heard It Through the Grapevine:Marvin Gaye/(邦題) マーヴィン・ゲイ:悲しいうわさ』の中で、彼女はマーヴィンの多くの深い矛盾を徹底的に繰り返している ‼

たとえば、恋人として彼が自分の評判に決して応えられないという恐怖から、壮大でエロティックな自慢話まで揺れ動いた経緯など、問題を抱え、説得力があり、あまりにも人間的な人物としてマーヴィン・ゲイを描いた。

そしてマーヴィン・ゲイを、「非常に複雑で問題を抱えた人物」「強い宗教的信念を持ちながらも確固たる官能主義者」「注目を渇望しながらも非常にプライベートな男」「音楽のために人生を送り、表現を与えるために絶えず努力した男」として鋭い輪郭を浮かび上がらせ、完成された伝記としてまとめ上げている・・・。

筆者にとって、今回浮上した『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる話し・・・『その信憑性への疑問』・・・何故ゆえ「フレディ・クーサート」を通じ、モータウンの世界的スターと接触した「チャールズ・デュモリン」のその手に、数々の『宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産と所縁の品々)』が贈られ、それらが誰にも知られることなく『40年以上隠されていた』のだろうか?・・・と言う、率直な問いと真相を追うためには、著名な二冊の書籍である、「デヴィッド・リッツ」の『Divided Soul:The Life of Marvin Gaye/(邦題) マーヴィン・ゲイ物語:引き裂かれたソウル』と、「シャロン・デイヴィス」の『I Heard It Through the Grapevine:Marvin Gaye/(邦題) マーヴィン・ゲイ:悲しいうわさ』の記述の中に、わずかでも「チャールズ・デュモリン」の存在についての手掛かりがないかを再度確認する必要があった。

しかし、残念ながらその手掛かりになる記述は一切なかった

数か月にも渡る綿密な調査の結果、マーヴィン・ゲイのベルギー滞在当時に密着していた「デヴィッド・リッツ」においては、実際に『チャールズ・デュモリン』という人物とは面識がなかった。

また、執念とも言える徹底した調査と未発表の事実について広範囲に調査した「シャロン・デイヴィス」においても、『チャールズ・デュモリン』という人物についての存在すら皆無であったことが判明した・・・

 
そのような再確認にかなりの時間を費やしながら、筆者がようやくたどり着いた前述の “ 論考 ” にて述べた『唯一の命題』・・・それは、没後40年の時を経た今、80年代当時において “ 崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』” が、アーティスト (音楽人生) としての再帰と栄光を掴むに至った楽曲『セクシャル・ヒーリング』と、それに纏わる数々の伝記やその文脈等で語られてきた『セクシャル・ヒーリング 物語』(マーヴィン・ゲイ個人の晩年人生) の『新たな展開が再び浮上』してきたことにより、再評価が迫られているとの認識に至ったのである ‼

つまり、マーヴィン・ゲイがオステンド滞在中に作曲家からアーティストに転向したベルギー人の『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン)』に贈られ、40年以上隠されていた宝庫『マーヴィン・ゲイの贈り物』の出現によって、これまで語られてきた『セクシャル・ヒーリング 物語』を新たに再構築しなければならない事態に発展する可能性を孕んでいると言うことを示唆している

そして今回、そのカギを握る「重要な宝庫」の一つが、マーヴィン・ゲイによるこれまでに聴いたことのない『デモ音源 (未発表曲66曲のデモが収録されているとされる30本のカセットテープ) 』であり、物語の再構築に多大な影響力を与えるであろう「最も重要な宝庫」が、『マーヴィンの個人的な思いが詰まったノート (120冊を超えるユニークな回想録)』であると筆者は確信している・・・。

それらの開示によって『セクシャル・ヒーリング 物語』は、従来の「客観的事実に基づく物語」の文脈に「主観的真実性を反映した物語」を抱擁 (抱き込む) することで進化 (あるいは真価) を遂げ、より実物大の崇高なるソウルのカリスマ『マーヴィン・ゲイ』の真実と本質に迫る伝記に生まれ変わるであろう

その物語は、これまで語られてきたストーリー (伝記やその文脈等) を無下にするような “ 新説 ” の物語ではなく、誰をも何をも傷付けることのない、それらを「超えて含む」、 “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』の誕生を意味している・・・

 
しかし物語は、それだけで収まるものではない・・・。

つまり、 “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』は、今や『Marvin Gaye’s Code story/マーヴィン・ゲイの暗号物語』へと変容を遂げることをも告げておきたい ‼

● 注釈:『論理哲学論考 (Tractatus Logico philosophicus)』とは

哲学者『ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン』が生前に出版したただ一つの哲学書であり、代表する著作『論理哲学論考 (Tractatus Logico philosophicus)』、略して『論考』の書物の掉尾を飾る命題 7 では、 “ 優美でいささか感動的な響きのある命題 ” によって閉じられる。

「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」・・・

現在でもしばしば引用される・・・しかし、大方の了解とは異なり、この言明は神秘主義的で不可知論的な命題が語られているわけでも、あるいは逆に形而上学的な領域の存在を否定しているわけでもない。

『論考』においては、語られえないものは示されうる・・・命題的に語られうるものを最大限明晰に語りきることによって、語り得ず、ただ示されうる領域を示すことは可能であり、まさしく『論考』はそのような行為を遂行しようとしたのであった。

有意味な(即ち、真偽について判断を為しうる)命題として、『形而上学的』、あるいは『価値的領域 (人生の問題)』を語ることができない、という『論考』の主張は、そのような領域が存在することを否定するものではない。

そうではなく、形而上学的領域を「語って」しまう形而上学は意味を為さない命題の集合に堕すほかない、ということを意味している

 
筆者が掲げるこの論考に対し、異論や批判があることは当然のことながら覚悟している・・・。

その上で読者の方々に願うことは、従来語られてきた『セクシャル・ヒーリング 物語』は、物語の再構築に多大な影響力を与えるであろう「チャールズ・デュモリン」の手に託された (委ねられた) 『最も重要な宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産)』=『マーヴィンの個人的な思いが詰まったノート (120冊を超えるユニークな回想録)』等の “ 新たな展開の再浮上 ” よって、 “ 新説 ” ならぬ “ 真説 ” 『セクシャル・ヒーリング 物語』への変換が現段階において迫られているという、必然とも言える事象・・・。

更に将来、『最も重要な宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産)』=『マーヴィンの個人的な思いが詰まったノート (120冊を超えるユニークな回想録)』等の全面的な開示の実現によって、 “ 従来の物語と真説の物語をも「超えて含む」” であろう、『Marvin Gaye’s code story/マーヴィン・ゲイの暗号物語』へと変容を遂げる瞬間 (今ここ) に、偶然にも「私たちは立ち会っているという幸運」と「否定しがたい稀有な現実」に気づいて頂けるかどうかに懸かっている・・・

 
しかしながら、どれだけの冷や水を浴びせられようとも、また如何なる敵を作ることになろうとも、筆者は一切恐れてはいない ‼
 


 

【 論 考 Ⅲ:マーヴィン・ゲイの『スピリチュアルな混乱』 】

 
そこで、読者の方々に一つの『純粋な問いについて自問』して頂きたい。

かのチャールズ・ダーウィンは、音楽を「人間の通常の生活に直接の役には立っていない。」と評したが、そうであれば、私たちはなぜこれほど音楽を、とりわけ「歌」を愛するのだろうか・・・

 
この『純粋な問い』について興味のない方は、この叙述を読み飛ばして頂いて構わない ‼

ただ、音楽を単なる自分の余暇、趣味として深めたいというのではなく、広く人間の文化の中で考えようという意欲のある方には、ぜひ音楽という極めて専門化された対象を、「文化的・社会的所産」というより広い文脈から捉えようという、『音楽学及び芸術・美学的批評哲学と批評理論』の存在と認識、音楽の聴き方として「ディープ・リスニング」という、『聴覚経験の拡張を図る聴き方』の存在と認識など、これまでとは多少違う角度から『音楽芸術』に関心を持って頂ければと切に願っている。(※ 詳細については省略する)

但し、上記の『学術的領域』を尊重しつつも、最も基本的に日々の生活の中で気づいて頂きたいことは、現代の特徴であるマインド中心のアプローチやブリコラージュ的アプローチだけでは、決して『純粋な問い』はおろか、その様な『自問』すら意識に浮かんではこないという点である・・・

 
かねてより筆者は、『マーヴィン・ゲイ』と言う人物を “ 崇高で深淵な「スピリット (スピリチュアル)」に精通する「目覚めた意識のモード」を宿しながら、「ラディカル (根源的)」で「アナーキー (独自のニュアンスを持ちながら、秩序の欠如や混乱を表す)」 ” な人格をも秘めた存在と捉えている ‼

それが故に読者によっては、ここから先の叙述が多少なりとも難解でややこしい話になるやもしれない・・・。

しかし、何故これほどにまでに多くの人々が、『マーヴィン・ゲイという全き人間性』について関心を抱き、彼の『声(スピリット)」と歌(ソウル)』に魅了されるのか。

つまり、私たちはなぜこれほど音楽を、とりわけ「歌」を愛するのだろうかと言う、『純粋な問い』へ導く「基盤(グラウンド、アルファポイント)」であると同時に、そのすべての「到達点(ゴール、オメガポイント)」でもある、『スピリットの存在』に突如として目覚めさせてくれるやもしれない・・・

 
いずれにせよ再度申し上げるに、この『純粋な問い』について興味のない方は、この叙述を読み飛ばして頂いて構わない ‼

● 人類の霊性史『スピリチュアリティー』

世界の偉大な智慧の伝統は、何らかの形での『永遠の哲学』『存在の偉大な連鎖』の哲学のヴァリエーションである・・・。

時代と文化を越え「永遠の哲学」と呼ばれている世界観は、キリスト教から仏教、タオイズムに至るまでの世界の偉大な叡智の伝統の核心を形成しているばかりか、東西、南北の多くの偉大な哲学、科学、心理学の核心のほとんどを形成してきた。この「永遠の哲学」の核心が『存在の偉大な連鎖』という考え方であり、基本的な考え方は「リアリティは単一の次元ではなく、幾つかの、異なった、しかし連続している次元で構成されている。」と言うものである。

顕現されたリアリティとは、したがって『異なった段階(ないしレベル)』で構成されており、ときに存在の偉大な連鎖は三つの大きなレベル、「物質―心―霊(スピリット、精神)」として提示される。他の提示方法では「物質―身体―心―魂―霊」の五つのレベルでも考えられる。もっと詳細なレベル分けとしてヨーガのシステムでは何十にも明確に区分され、それは低位の、最も粗く、最も意識の少ない段階から、高位の最も意識の高い段階まで連続している意識の次元が提示されている。

『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は低位の意識段階から高位の意識段階までの「階層(レベル)」を登って成長し、あるいは進化できるということ、それはすべての成長と進化が「偉大な連鎖という階層性(ヒエラルキー)」を展開しながら、その完全性への到達を目指すことを示している。

私たち人間には(少なくとも)、すべての偉大な連鎖に対応する『三つの知の眼(知のモード)』があることを示すことができる。そこにも「階層(レベル)」があり、物質的な事象と感覚の世界を捉える(開示する)『肉体の眼』、イメージ、概念、観念など、言語と象徴の世界を捉える(開示する)『心(理知)の眼』、そして、スピリチュアルな経験や状態、つまり、魂と霊(スピリット、精神)の世界を捉える(開示する)『観想(般若)の眼』である。

これらは、身体から、心、霊(スピリット、精神)に至る『意識のスペクトル』を単純化したものであり、世界のすべての叡智の伝統であるタオからヴェーダンタ、禅からスーフィズム、ネオプラトニズムから孔子の哲学などは、すべてこの偉大な連鎖に基礎をおいていることを論証している。それは「存在と認識」の様々な階層(レベル)を伴った、『意識の全体的なスペクトル』である。

すでに述べたように、『永遠の哲学』の中心的な主張は、人間は「物質―身体(生命)―心(ハート、マインド)―魂―霊(スピリット、精神)」の各段階(階層)を登って発達・成長し、あるいは進化しながら、存在と認識はその完全性への到達を目指して行く。この永遠の哲学の核心である『存在の偉大な連鎖』ないし『意識のスペクトル』の一方の端には、物質と呼ぶ「感覚のない(少ない)」「意識のない(少ない)」ものがあり、一方の端には「霊(スピリット、精神)」「至高神」「超意識」(それはまた、スペクトルすべての基底となる)がある。

その間に並ぶのは、プラトン(実在)、アリストテレス(現実性)、ヘーゲル(包括性)、ライプニッツ(明晰性)、オーロビンド(意識)、プロティノス(抱擁)、ガラップ・ドルジェ(知性)など、呼び方の異なる『リアリティの次元』である。

それはステップを踏んで「段階的」「階層的」「多次元的」(言葉はどうあれ)に顕現する・・・。

しかしながら、数千年に及ぶ様々な伝統に属す霊的人物や神秘家の生き方をざっと見ただけでも、『人類の霊性史(スピリチュアリティー)』は部分的に、「人間の分断から生まれた悲喜こもごもの物語」として読むことができる。

それは現代においても有機的に、「表層意識」「潜在意識」、それに「集合的無意識」に深く浸透し、人間と世界のあらゆる次元が著しく分断の様相を顕在化させている原因でもある。

過去から現在において、スピリチュアリティーを特徴づけている『決定的な欠陥要因(乖離)』、あるいは、『霊的ヴィジョンの断片化(偏り)』とは、意識的精神の解放を求める過剰(ハイパー)なまでの衝動によって、自己感覚を超越的意識にのみ同一化させることを主眼としてきたところにある。

それはしばしば、『人間の基礎的諸次元』である「身体的」「本能的」「性的」、そして「ある種の感情的な次元」を、再三にわたって抑制することとなったのである。

つまり、スピリチュアリティーの主要な諸潮流、及び宗教的実践の歴史上において、身体やその『生命的・内在的・潜在的・原初的エネルギーの次元』は、それ自体で霊的洞察をもたらす正統で信頼のおける源泉とは見なされてこなかったのである。

言い換えれば、身体、本能、性(セクシュアリティ)、そして感情の一部は、心(ハート)や思考・精神(マインド・メンタル)、意識(各階層的意識)と同等のものとして、それらと協同して霊的(スピリチュアル)な悟りや解放を達成できるとは、一般に認められてはこなかった。さらに言えば、多くの伝統宗教や宗派、神秘思想では、『身体と原初的世界が実際、霊的成長の妨げになる』と信じられてきたのである・・・。

 
現代において、『スピリチュアル』と言う言語そのものに対する、ある種の抵抗感や違和感、あるいは非科学的で退行的な迷信のように捉えている人々も当然少なくはないだろう・・・。

中には宗教や信仰そのものに抵抗を示す「無神論者」から、霊能力や超越的世界への不信感と胡散臭さを抱くのも、今日の文明社会では仕方のないことであろう。返ってそのような話題を真剣に議論することさえ、バカバカしいと考えるのも止むを得ないほど、論理的な理性重視の時代を私たちは生きている。

しかし、この分野を探究し育んでいくための重要な研究者たちが指摘するには、どんな伝統のスピリチュアルな指導者や教師でさえ、偏った発達を示している・・・

 
たとえば、認識とスピリチュアルな機能の面では大変すぐれていても、倫理的な面では因習的であったり、対人関係や感情面や性的行動の面では機能不全だったりすることがある。

発達がバランスを欠いていると、真剣に取り組んでいるスピリチュアルな努力の多くが、身体や性や感情のレベルで生じる葛藤や傷によって損なわれてしまう。

スピリチュアルな探求者はあまりにもしばし、自分の抱くスピリチュアルな理想と自分のなかの本能的、性的、感情的な欲求との間の緊張に悩まされる。

そして、誠実な意識的な意図をもっていたとしても、無意識の衝動パターンや習癖に繰り返し陥ってしまうのである・・・

 
さらには、サイコスピリチュアルな発達が偏っている場合には、『人間の開花だけでなく、スピリチュアルな認識力』にもマイナスの影響を及ぼしかねないのである・・・。

結局のところ、現代の教育・文化が、ほとんど排他的とまで言えるほどに『合理的なマインドと、その認識機能の発達』にのみ焦点を合わせており、人間のその他の次元の成熟にはほとんど注意が向けられていない。

もっとはっきり言えば、生得的に与えられている『人間の身体や本能、性、感情の原初的な世界 (人間存在のすべての主要な次元) の成熟』を軽んじている・・・

[人間存在のすべての主要な次元]:身体的、生命的、感情的、心理的、霊的次元。あるいは、[人間の諸次元]:身体、本能、性(以上の三つの生命力)、ハート(感情)、マインド(思考や精神)、意識及び超越的意識(魂/ソウル 及び 微細・元因・非二元的な霊性/スピリット)

 
その結果、私たちの文化における大部分の人たちが、大人になるころには、かなり成熟した精神的機能をもっているものの、それらの原初的世界はほとんど発達しないままになっているのである。

現代の極端な『認知中心主義(マインド中心の成長モデル)』では、身体、本能、性、ハートが自律的に成熟するための空間が作り出されていない状態に加え、これらの世界が健全に進化するためには、精神(メンタル)によって制御される必要があるとの深い思い込みをかえって永続させることが問題なのである・・・‼

そして、いちばん悲劇的なことに、身体や本能、性、感情の永続的なコントロールや抑制が、これらの『非言語的な世界』の単なる未発達というだけでなく、しばし傷つき歪んだものとなり、退行的傾向が最初に出くわすのが、『葛藤や恐れや混乱の層』である・・・

 
それが悪循環に陥ると、人間のこれらの次元の自律的な成熟がより困難となり、より精神や外部からの方向づけを求める気持ちが永続的に正当化されることとなり、好ましくない症状もさまざまに生じるのである。

そこには、 “ ハートのチャクラから上 ” だけを『スピリチュアリティーとみなす傾向』=『スピリチュアルな混乱』があり、その背後には非常に多くの歴史的、文脈的要因がある・・・。

筆者がマーヴィン・ゲイを、『崇高で深淵な「スピリット (スピリチュアル)」に精通する「目覚めた意識のモード」を宿しながら、「ラディカル (根源的)」で「アナーキー (独自のニュアンスを持ちながら、秩序の欠如や混乱を表す)」な人格をも秘めた存在である』と述べたのは、彼の生涯における幾つかのエピソードからは、上記で説明した内容と合致する『スピリチュアルな混乱』が垣間見えるからである ‼
 


 

【 エピローグ 】

 
今回の特集記事を投稿するにあたり、報道に関する綿密な調査と従来周知されてきたコンテクスト (著名な二冊の書籍など) で語られてきた内容の再確認にかなりの時間を要することになってしまった・・・。

その大きな理由の一つとして、まずは読者の方々に対し、以前から語られてきた『マーヴィン・ゲイのベルギーとのつながりの話』について理解して頂くための説明が不可欠であったこと、特に当時において、彼が『クリエイティブな健康を取り戻すのに役立った登場人物たち』をいま一度知って頂くと同時に、その『並々ならぬ功績と賛美に値する歴史的な価値と意味』をこれからも忘れ去られることなく、 “ 人々の記憶の奥に残し続けていかねばならない ” と言う、積年の情念が筆者にはあったからである ‼

また、当然のことながら筆者が伝えたかった理由は、それらが『全て』ではない・・・。

つまり、それら『マーヴィン・ゲイのベルギーとのつながりの話』は、どこまで行っても『マーヴィン・ゲイ物語の部分』でしかない。もしくは、外面的(客観・間客観的)領域からより詳細な「部分」を寄せ集めたとしても、『一体性のあるマーヴィン・ゲイの全体(よって全部)』を暴き出すことにはならない。

それは、せいぜい『マーヴィン・ゲイの半分にも満たない(八分の一)』、つまり、目に見える外面的な部分を外側から眺めた客観的事象についてのみを語るにとどまるからである ‼

言い換えれば、1981年2月14日のベルギー滞在から、父親に撃たれて亡くなる1984年4月1日までの『マーヴィン・ゲイの半生 (生死の境に会った3年数か月の時期)』に意識をフォーカスし、今は亡きマーヴィンの「声なき声」に耳を傾け、「形なき形」に目を凝らしたとしても、 “ マーヴィン・ゲイという全き人間性 (スピリット) ” について『言葉で伝え切ることへの限界 (言葉では到底及ばない)』をあらためて思い知らされるばかりであった・・・。

ただ一瞬、わずかながらも『マーヴィン・ゲイの意識のモード』にプラグイン (拡張) したような、不思議な知覚 (芸術現象) が『意識の覚醒』をもたらし、彼からの啓示とも言わんばかりの『ヴィジョン』とともに、筆者の意識レベルと文書力を超越した『叙述形式の変性』へと導かれることが何度もあった ‼ (※ 下記の叙述はそれらを解釈した文章である。)

「スピリットの眼において私たちは出会う。あなたは私を。そして、私はあなたを見つける。奇跡とは、私たちがお互いを見つけだしたこと・・・この事実こそ、疑いもなく、まさに活動するスピリットが絶えざる存在であることの最も単純な証拠なのです。」

「クリエイティブになるためにアーティストである必要はありません。あなたはただ、この瞬間、この瞬間の崇高な美しさに目覚めたいと心から願う人でなければなりません。特定のスキルや才能、自己表現のスタイルに関係なく、私たちは皆、進化するアーティストです。なぜなら、結局のところ、人生とは自分自身を見つけることではないからです。それは自分自身を創造することなのです。」

 
そのような時を過ごす間、筆者の傍らには常に1998年11月10日リリース『Midnight Love & Sexual Healing Sessions』の曲が流れていた・・・。

● Midnight Love & Sexual Healing Sessions

 
今回、BBCが最大のスクープを報じるに至ったこれまでの文脈と『マーヴィン・ゲイの贈り物 』に対する「信憑性や疑問の数々」をはじめ、『マーヴィン・ゲイと隠された宝物の背後にある物語』から湧き上がってくる『深い考察と新たな洞察』と言った、過去の歴史から現在地、そして今後予測される展開等に関する探究や論考等を目にすることは皆無と言って過言ではない・・・。

また、ベルギーに40年以上隠されていた『マーヴィン・ゲイの贈り物』の運命を占う上で、主導的役割を担っている弁護士アレックス・トラペニアーズ氏が現在展開している一連の動向に対して、『健全な警戒心 (筆者はある種の疑念を抱いている)』をもって注視して行く必要性を強調しておきたい。

其の上で、ベルギー滞在時における『マーヴィン・ゲイと隠された宝物の背後にある物語』の真実を見極めるには、如何なる物事にも潜んでいる『盲点 (誠実さを欠いた意図や目的など存在)』をも視野に置いておくことが賢明であろう・・・‼

1982年当時、マーヴィン・ゲイとチャールズ・デュモリンの二人が過ごした時間はごく僅かである・・・。

にも拘らず、その信頼関係は想像以上に深いものとなり、たとえ行きがかり上による偶然の出来事であったとしても、デュモリン氏のもとに『マーヴィン・ゲイの贈り物』とされる数々の『宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産と所縁の品々)』が残されたことは明白な事実である。

また、それらは誰にも知られることなく、デュモリン氏とその家族によって40年以上隠されていた。

仮に生前において、デュモリン氏と言う人物が『富と名声』を得ようと考えたならば、その実現化は十分可能であっただろう。

しかし彼は、それを実行しなかった

マーヴィン・ゲイと出会った当時、彼は既に『影の中での生活』を選んでいた。

デュモリン氏がかつてのインタビューで、「僕は限界を押し広げたいけど、アンチスターとして、名声がすべてを意味するわけではないからね。誰に対しても平等に敬意を払わなければならない。」と語ったことから浮かび上がって来る人物像は、『富と名声などよりも、「美徳」を重んじる人格の持ち主』であったと筆者は捉えている・・・

 
如何なる反感をも受ける覚悟で筆者が忠告したいことは、『特別高い価値 (希少な歴史的価値) を伴う芸術遺産』が突如出現し、それらを所有していた人物以外の者が、その価値あるものの意義や重要性を全く理解することなく (あるいは価値の大きさを十全に知りながら)、ただ単に打算的な売却目的の為だけにそれらの価値をできる限り吊り上げようなどと言った、邪 (よこしま) な欲望を抱いたとき、道徳すら武器として利用するような策略や謀略を企てる者は、いつの時代においても存在する。

それらは往々にして、善悪や美醜をも超越し、他人に帰属すべき権利や利得を不正に侵害したり取得することをも厭わず、優越的立場を濫用し、他人を使役して不当に利益を得ようとする。

最も由々しき事態 (惨事) は、歴史的芸術的価値の本質がほとんどの場合、それらが『内在している一体性による所産』であるにも拘らず、無惨にもバラバラに引き裂き、切り売りされ、ついにはその影も姿さえも損なわれることである・・・。

デヴィッド・リッツ氏が、ソウルの伝説の頭上に現れた電球に一時的に目が眩んだように。是非ともアレックス・トラペニアーズ氏には、マーヴィン・ゲイがベルギー滞在当時にクリエイティブな健康を取り戻すのに役立った当事者達を尻目に、目の前に突如として出現した『マーヴィン・ゲイと隠された宝物』に目を眩ませることなく、40年以上の時を経て、今ここで『偶然にも与えられた特別な使命』を誠実で公正な信条と善良なる姿勢で臨んで頂きたい・・・

 
筆者としても、『今ここに生まれたばかりの赤子を手洗 (たらい) の水と一緒に捨ててしまう』ようなことは到底容認できない ‼

そうした神妙な面持ち (通常とは違う何事かを事情として抱えて) を抱きながら、今回、特集として記事を書き始めたために、これまでの「文脈」に加えて、「注釈」を掲げながらの「筆者の考察と論考」という、記事内容としては非常に長文であることはおろか、読者の方々を “ 多少ややこしい世界に引き込む ” ことへなったかもしれない・・・。

それにも拘らず、ここまで読み進めて下さった読者の方がいるとするならば、それは何より “ 書き手冥利に尽きる ” と言うものである ‼ ( 読者の方に心から感謝します。)

1982年当時、マーヴィン・ゲイがオステンド滞在中に作曲家からアーティストに転向したベルギー人『Charles Dumolin (チャールズ・デュモリン)』に贈った、『これまでに聴いたことのないデモ音源 (未発表曲66曲のデモが収録されているとされる30本のカセットテープ) 』は、西フランダースのギステルの準自治体モエレにある18世紀の別荘 (ヴィラ) で録音された・・・。

このヴィラこそが、マーヴィンがベルギーに住んでいたときに新しい曲を作り、バンドのリハーサルをした場所だった。

マーヴィンはそこに6ヶ月間滞在し、次から次へとカセットを埋め、 “ 80年代で最も成功した楽曲 ” 『セクシャル・ヒーリング』が生まれた ‼

40年以上隠されていた『マーヴィン・ゲイの贈り物』・・・それらは、 “ 崇高なるソウルのカリスマ ” 『マーヴィン・ゲイ』の死から40年が経ち、生誕85年目にしてベルギーの海岸沿いにある小さな街「オステンド」で再発見された『新しい音楽=重要な宝庫 (偉大なる音楽芸術の遺産)』であった・・・。

ベルギーに残された音楽キャッシュには、1982年当時、マーヴィン・ゲイが30本の古いカセットテープ(約13時間分の音楽に相当)に、これまでに聴いたことのないデモ音源66曲の音楽が録音され、そのうち38曲はマーヴィン・ゲイ自身の声が入っていると言われている。

また、その38曲の中には、『Sexual healing (セクシャル・ヒーリング)』の “ 誰も聞いたことのない8つのヴァージョン ” が収録され、そのほか『20曲もの未発表音楽』も含まれている。

そのうちの1つは、『Sexual healing (セクシャル・ヒーリング)』と同じくらい強力な楽曲が存在すると言う・・・

 

マーヴィン・ゲイの80年代当時とは、『アーティスト (音楽人生) 』にとっての再帰と栄光を掴むに至ったカムバックヒット曲『Sexual healing (セクシャル・ヒーリング) の誕生』と共に、彼の晩年人生と音楽の旅を描いた魅力的な章を再び明らかにする『セクシャル・ヒーリング 物語 (マーヴィン・ゲイの晩年人生における新たな展開)』の始まりであり、キャリアのハイライトを飾る『マーヴィン・ゲイ空前の伝説物語の終わりに向けたかなり興味深い脚注』でもある。

そして、1984年4月1日にマーヴィン・ゲイはこの世を去った・・・。

しかし、彼の『声(スピリット)」と歌(ソウル)』は未だこの世を去ってはいない ‼

「偉大な芸術」は、過去を嘆いたり未来をあれこれと考えることを停止させる。

「偉大な芸術」は、その内容ではなく、その力において自己の苦しみや渇望を一瞬にあるいは永遠に解き放つ。

「偉大な芸術」の力は、あなたに息を飲ませ、あなたの自己を時間をはぎ取って行く。

今まで見たことの無い知覚に開かれ、あなたは文字通りたじろぐ…そしてあなたは変えられる。

わずかかもしれない…しかしその瞬間、あなたの『スピリット』はこの世界で少しだけ余分に輝きを増す。

マーヴィン・ゲイ…あなたの魂は今も常に生き続けている・・・。

 
昨年の11月2日、ビートルズの「最後の新曲」と謳われる “ Now And Then ” がリリースされ、世界の話題を独占した・・・。

「そんなビートルズの新曲がリリースされるという事件をいったい誰が予測できただろうか。そしてそれを無抵抗に受け入れることのできるファンなど、はたして存在するのだろうか。」と、音楽家の佐藤優介は綴った。

それは、1978年に記録された『ジョン・レノンの遺したデモ』をもとに制作され、リマスターされて作られ、彼らの最後のヒット曲となった・・・。

そして今年、ジョン・レノンが憧れていたマーヴィン・ゲイ。その『マーヴィン・ゲイの遺したデモ』がベルギーで発見された ‼

筆者は今この一瞬一瞬において、『晩年期のマーヴィンがどのように仕事をしたか、そして彼の曲がどのように生まれたかを聞けること』を切望しながら、それらが開示されることを心待ちにしている。

そして世界中のフォロワー達は、音楽史の調和のとれた融合の中で過去と現在の架け橋となる、『マーヴィン・ゲイの不朽のメロディーが復活する可能性』を熱望しているだろう・・・‼

by JELLYE ISHIDA.

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