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G2J Spiritus CLUB. VOL.14:Portrait of a Legend(伝説の肖像)/ GIL SCOTT-HERON

 

1970年、社会の矛盾を突いた自らの詩を音楽にのせ、当時 “黒いボブ・ディラン” と呼ばれた音楽家で詩人の『Gil Scott-Heron(ギル・スコット・ヘロン)』は、70年代ジャズの名門「Flying Dutchman(フライング・ダッチマン)」からデビューした。

70年代の中で、音楽に最も強いメッセージを込めていた彼の場合、出発点は詩人であり、レコーディング第1作目もハードな『ポエトリー・リーディング』に近い内容で、パーカッションを使ったそのスタイルは、「The Watts Prophets(ザ・ワッツ・プロフェッツ)」や「The Last Poets(ザ・ラスト・ポエッツ)」にも似ている。

 

【 Poetry Reading(ポエトリー・リーディング)】

 
ポエトリー・リーディング (英語: poetry reading) は、主に詩人が自作の詩を読み上げることを指すが、広義には詩を朗読するアート形態そのものをさす。ラップミュージックにのせて詩を読んだり、ビートボックスとコラボレーションして詩を読んだりという形態もある。

アメリカにおいて「ポエトリー・リーディング(詩の朗読)」というのは、アートにおけるひとつのジャンルを形成する重要な文化である。プロだけでなく観客が詩を朗読し、それを観客の中から選ばれた審査員が採点するコンテストを毎週開催している店もある。

マンハッタンのローワー・イースト・サイドにあるセント・マークス教会やニューヨリカン・ポエトリーカフェ等では、職業詩人の他、一般人が社会や個人へ向けて自作の詩を詠む姿が見られる。

口に出して読むことを重視しているため、詩を朗読したCDやカセットも数多く販売されていて、詩人自らがポエトリー・リーダーとして舞台に立つのが当たり前にもなっている。

そんなポエトリー・リーディングのメッカ、ニューヨークにおいても、チェルシーからほど近いグリニッチ・ヴィレッジはその中心地と言える。一方、アメリカ西部からヨーロッパにおいては、演出を凝らした形態のものも見受けられる。

アメリカ合衆国のニューヨークを中心にした東部においては、1950年代以降、「Jack Kerouac(ジャック・ケルアック)」や「Allen Ginsberg(アレン・ギンズバーグ)」に代表される『ビートニクス』と称される詩人のシンプルな朗読形態がポエトリー・リーディングの主流である。


1960年代の後半には、アフリカン・アメリカン達によるゲットーの暮らしやその住民の人々の代弁者として黒人ビートニクスは、ポエトリー・リーディングとパーカッションとのセッションで熱気にあふれたパフォーマンスが盛り上がりを見せる。中でも、路上詩人集団「The Last Poets(ザ・ラスト・ポエッツ)」の「イースト・ウィンド」セッションが話題を呼んでいた。ドープなアフロ・ファンクの“Niggers Are Scared Of Revolution”を聴けば、彼らがラップ/ヒップホップのオリジネイターだとされるのも納得できる。


60年代後半のニューヨーク市チェルシーの街は、そんな詩人たち、ビートニクスたち、そしてミュージシャンたちのたまり場であり、作品発表の場でもあった。

そんな熱気にあふれた街に母親とともにやって来て住むことになった孤独な黒人少年。「黒いディラン」と呼ばれた男「ギル・スコット・ヘロン」。彼は街角で朗読される詩やギター片手に歌われる音楽に感動し、自ら詩人になることを志し、激動の60年代が過ぎ、公民権運動の熱気がさめてしまった70年代に活動を開始した。

彼はシラケた時代の気分を奮い立たせようと闘い続け、人種差別などに対して言葉で闘い続けた曲は、実際には意外なほどポップでファンキーであり、もっと日本でもその名が知られてもよいと思う。

もともとポエトリー・リーディングは白人インテリ層の文化であり、それに対してラップは黒人たちの中から生まれた文化であった。そのため、ニューヨーク・ラップとポエトリー・リーディングの関係は、意外に遠いものであるが、ラップ文化の大きな拡がりによって、しだいに二つの文化は融合し始めるのかもしれない。

実際、ラップ・ミュージシャンたちの間で、ギル・スコット・ヘロンの曲はサンプリング・ネタとして大活躍している。

 

事実、ヘロンはラスト・ポエッツのライブを見て衝撃を受け、表現者として音楽に目覚めたようで、彼の反社会的で攻撃的な思想とアジテーションのようなヴォーカルスタイルは、その後のヒップホップに多大な影響を与えた。

1970年に発表した記念すべきファースト・アルバム『Small Talk at 125th and Lenox』は、全14曲(章)から“ The Vulture ”、“ Who’ll Pay Reparations on My Soul ? ”、“ Everyday ”の歌3曲を除けば、タイトル通り、パーカッションをバックにギル・スコット・へロンが彼の処女詩集である同名の作品を朗読したもので、過激で反体制的なポエトリー・リーディングが響きわたるスピリチュアルな作品である。

 

 

 

このアルバムがヘロン21歳の時に制作された作品であることを考えると、もうこの時点ですでに、1曲目に収録されている“Introduction / The Revolution Will Not Be Televised”を筆頭に、躍動的なリズムに乗せて、剥き出しの言葉を深みのある声で表現する「確固たる音楽スタイル」が確立されていることに驚かされる ‼

因みに、Last Poets(ラスト・ポエッツ)の1stアルバム『The Last Poets』も同年(1970年)リリースされた。

 

 

1971年、第2作目にあたるアルバム『Piece of a Man』は、音楽的要素を拡大し、ジャズ・ファンクやブルージーなスタイルをとった。彼の音楽的相棒である「Brian Jackson(ブライアン・ジャクソン)」もこの作品から参加している。

 

 

Flying Dutchman(フライング・ダッチマン)のプロデューサー「Bob Thiele(ボブ・シール)/ペンネームはジョージ・ダグラス(この名義でルイ・アームストロングの“この素晴らしき世界”を作詞作曲している)」の顔の広さのおかげか、ブライアン・ジャクソン以外のメンバーがやけに豪華だ。ほぼ音楽的なデビュー作にも関わらず、鉄壁のリズム隊には、Bernard Purdie(バーナード・パーディ/ドラム)とRon Carter(ロン・カーター/ベース)、フルートとサックスはHubert Laws(ヒューバート・ロウズ)が担当している。

 

【 ジャズの流れを網羅したFlying Dutchman Records 】

 
『Flying Dutchman Records(フライング・ダッチマン・レコード)』は、アメリカ合衆国の音楽業界においてベテラン経営者、プロデューサー、ソングライターとして知られていた「Bob Thiele(ボブ・シール)」によって設立されたジャズ系レコードレーベル。

ボブ・シール(1922年7月27日 – 1996年1月30日)はアメリカの音楽プロデューサー。ペンネームにジョージ・ダグラスがあり、この名義でルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』を作詞作曲している。

シールは14歳の時にジャズのラジオ番組を主催。彼はクラリネットも演奏し、ニューヨーク地区でバンドを率いていた。17歳の時にシグナチャー・レコードを創設し、レスター・ヤングやエロール・ガーナー、コールマン・ホーキンスを録音した。シグナチャーは1948年に倒産、1952年にシールはデッカ・レコードに移り、デッカの子会社のコーラル・レコードのA&Rマネージャーを務める。

1961年にインパルスレコードの創設者「クリード・テイラー」がヴァーヴ・レコードに移った為、後継として着任。ジョン・コルトレーンやチャールズ・ミンガス、ディジー・ガレスピー、ソニー・ロリンズ、アーチー・シェップ、アルバート・アイラー等、錚々たるミュージシャンのプロデュース/作品づくり/録音に携わった。

1969年にインパルスより独立し、RCAレコードの配給の元、フライング・ダッチマン・レコードを創設。1972年に歌手のテレサ・ブリュワーと結婚した。そして、フライング・ダッチマン・レコードの創設から1978年に活動を停止するまでに、約100点のアルバムをリリースした。(一部、他社原盤を含む)

1983年にドクター・ジャズ・レコードを創設し、1988年にRCAレコードに売却。晩年の1990年代初頭にレッド・バロン・レコードを創設し、1995年には回顧録『What a Wonderful World』を発表。翌年1月30日に死去した。 あまり知られていないが、自らの作品をインパルスとフラング・ダッチマンで発表している。

フライング・ダッチマン・レコードは当初、アトランティック・レコードによって配給されていたが、1972年には5枚のアルバムをザ・ フライング・ダッチマン・シリーズとしてMega Records(メガ・レコード)からリリースする契約をシールが取り付けた。しかし、その後この契約は更新されず、配給はRCAレコードに移り、1976年にはレーベル自体がRCAレコードに売却された。

フライング・ダッチマンには、「Amsterdam(アムステルダム)」、「Blues Time(ブルース・タイム)」、「Contact(コンタクト)」と3つのサブレーベルがあった。

Gil Scott-Heron(ギル・スコット=ヘロン)はフライング・ダッチマンのレーベルから、デビュー・アルバム『Small Talk at 125th and Lenox(1970年)』や『Pieces of a Man(1971年)』、『Free Will(1972年)』を含む3枚のアルバムを出している。

レーベルからは上記のミュージシャンであった、ギル・スコット=ヘロン『ピーセス・オブ・ア・マン』のようなジャズ・ファンク的な作品や、サキソフォン奏者のガトー・バルビエリ『アンダー・ファイア』やピアニストのロニー・リストン・スミス『エクスパンションズ』などのクロスオーヴァーからフュージョンの先駆的なアイテムが人気を集めているが、このレーベルの強みは、70年代後半までのジャズのスタイルがいろいろ網羅されているところにもある。

ニュー・サンシャイン・ジャズ・バンドの「ラグタイム」に始まり、ルイ・アームストロングやボビー・ハケットの「ニューオリンズ~ディキシーランド・ジャズ」、デューク・エリントンやカウント・ベイシーの「スウィング(ビック・バンド)・ジャズ」、編曲家のオリバー・ネルソンやソニー・スティットの「モダン・ジャズ」、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」、そして前述の「ジャズ・ファンク」や「フュージョン」につながるアーティスト等、ここだけである程度のジャズの変遷が把握できるほど、フライング・ダッチマンは多彩なカタログを持っているのだ。

ヴォーカルものもシールの奥方テレサ・ブルーワやレオン・トーマスなど、バラエティに富み、加えてアンジェラ・デイヴィスやH・ラップ・ブラウンなど「黒人運動家の演説」、ジョン・アップルトンの「電子音楽」など、ほかのジャズ系カンパニーとは一味も二味も異なるラインナップも含まれる。

その他にもフライング・ダッチマン・レコードに録音を残したミュージシャンには、サキソフォン奏者トム・スコットやピーター・ハミル、ドン・チェリー、チコ・ハミルトン、ヤン・ガルバレク 、ラリー・コリエル、コールマン・ホーキンス、レスター・ヤングらがいる。

フライング・ダッチマン・レコードのカタログは、その後の変遷を経てソニー・ミュージック・エンタテインメント(アメリカ合衆国) が所有しており、レガシー・レコーディングスのレーベルから配給されている。

 

2ndアルバム『Piece of a Man』の内容は、コルトレーンとビリー・ホリディに捧げられた“Lady Day and John Coltrane”、フリーソウル曲 “When You Are Who You Are”、感傷的なジャズ・トラック“Pieces of a Man”、ブルージーに迫る“A Sign of the Ages”などを収録した傑作で、デビュー・アルバムにもリーディング版が入っていた、彼の代表曲で革命的な1曲 “The Revolution Will Not Be Televised”は、このバージョンの方が有名である。

 


 

以後彼は「黒いボブ・ ディラン」以外にも、「闘う詩人」「ラップのゴッド・ファーザー」「ヒップホップのパイオニア」「アシッドジャズの原点」などの異名を持ち、 社会や政治への痛切な批判を込めたポエトリー・リーディングとジャズやファンク、ソウルを融合させ、1970年のデビュー・アルバム以来、一貫して社会や政治に対する痛烈なメッセージを乗せた歌を歌い続けてきた ‼

彼が活躍を始めた1970年代半ばはすでに、黒人解放運動は行き詰まりの状態にあり、黒人音楽もそんな状況を表すかのように低迷の時代を迎えようとしていた。

世の中はディスコ・ブームのまっただ中にあって、ヘロンはかつての勢いを失ってしまった「ジャズ」と、まだ新しかった「ラテン音楽」をバックに “ まだ闘いは終わっていないのだ ! ” と力強い言葉を繰り出し続けた。

彼は時代の流れの中で退却を続けながら、それでも前向きに進むことを諦めることなく、時代が違えば偉大なヒーローになっていたかもしれない・・・しかし、ヒーローを必要としない時代に生きることを神に命ぜられた男は、孤独な闘いを続けた。そのような人物だからこそ、彼の繰り出す言葉は本当に信じられる ‼

残念なことに、「黒人文化の語り部」ギル・スコット・ヘロンの日本版アルバムはほとんど出ていないため、彼の歌詞は自分で訳すしかない・・・。

 

 

2011年5月27日、約40年間にわたって批評精神に溢れたアフリカン・アメリカン詩人であり、 政治的コメンテイターでもあり、また現実から眼を背けないミュージシャンとして、ラップの始祖とも言える鋭利なコトバを駆使した異才「ギル・スコット・ヘロン(62歳)」は惜しまれつつNYの病院で亡くなった。

ヘロンは、ヨーロッパ旅行から戻ってすぐに具合が悪くなったといわれているが、晩年までアーティストとして活躍していた。その死因について詳細は明らかになっていないが、2008年にはHIVに感染していることを明かしていた。

 

 

ソウル、ジャズ、ブルースほか、ポエトリー・リーディング、スポークン・ワードによる政治的な歌詞を駆使した1970年代の彼の作品は、アメリカのヒップホップ、ラップ・シーンに大きな影響を与え、パブリック・エナミー、ウータン・クラン、モス・デフ、タリブ・クウェリ、エミネム、スヌープ・ドッグ、カニエ・ウェストなど数多くのアーティストから崇拝された。

パブリック・エナミーのチャックDは「俺らは俺らがやるべきことを、俺らのやり方でやっている。それは、あなたのおかげだ」とツィート。エミネムは「RIP、ギル・スコット・ヘロン。彼は全てのヒップホップに影響を与えた」と追悼している。本人は“ヒップホップの先駆者”とみられることに否定的だったが、その影響力は多大だった ‼

 

 

1970年からこれまでに15枚のスタジオ・アルバムをリリース。2010年には16年ぶりの新作『I’m New Here』を発表。多くのメディアがベスト・アルバムに選ぶなど絶賛されたばかりであった。また、2011年に入り、イギリスの気鋭DJ、ジェイミー・XXとのコラボレーションとなるリミックス・アルバム『We’re New Here』をリリースしツアーも精力的にこなしていた最中での訃報であった・・・。

2011年5月27日、62歳でこの世を去った「伝説の黒人吟遊詩人」と語られるミュージシャン、詩人、作家であり、EminemやSnoop Doggなども敬愛する「ラップの始祖」でもある『Gil Scott-Heron(ギル・スコット・ヘロン)』に、敬愛を込め深く哀悼の意を捧げる。

by JELLYE ISHIDA.


『The Revolution Will Not Be Televised / 革命はテレビ中継されない』

 

なあブラザー もはや家に閉じこもっていられない
テレビのスイッチをいれて くつろいでる場合じゃない
ヘロインで夢心地になってる場合じゃない
CM中にビールをとりに行ってる場合じゃない
なぜなら・・・革命はテレビ放送されないからだ

来るべき革命は テレビ中継されないのだ
革命は「ゼロックス社の提供でお送りしま・・・」せん
革命は「CM無しの四部構成でお届けしま・・・」せん
革命とは 映像化できないのだ
ニクソンが突撃ラッパを吹いて
ミッチェル司法長官だの エイブラムス軍司令官だの
アグニュー副大統領だの リバース議員だの
手駒たちが ハーレムの黒人教会の台所から
豚モツをカッパラってきてムシャムシャ食べる
・・・革命とはそんな映像のことではない
つまり革命とは 放送することができないのだ

革命てのはテレビドラマじゃねえぞ?
ビール会社が冠スポンサーになることもないし
ナタリーウッズも出演しないし
スティーヴマックイーンも出演しないし
ブルウィンクル(注:子供向けアニメキャラクター)も登場しないし
ジュリア(注:黒人向けホームコメディのお母さん)も登場しない

革命てのは歯磨き粉じゃねえぞ?
革命で「歯が白くなってセクシーになれま・・・」せん
革命てのはヒゲ剃りじゃねえぞ?
革命で「剃り残しナシになりま・・・」せん
革命てのは補正下着じゃねえぞ?
革命で「3キロ痩せて見えま・・・」せん
つまり なあブラザー
革命はテレビで放送されることはないのだ

アンタは大勢にまじって 買い物カートを押してひた走り
カッパラってきたテレビを盗難車の救急車へ必死に運び込む
・・・革命とはそんな映像のことではない
大統領選挙であれば 早くも午後8時32分
NBCテレビが早くも当確報道をだすだろうが
革命は予測も出来ないのだ
革命がテレビで放送されるはずがないのだ

革命はスポーツ中継じゃねえぞ?
黒人がポリ公に撃ち殺される映像を
「スローモーションでもう一度」・・・んなわけねえだろ
ホイットニーヤングが 流行のストレートパーマをあてて
ハーレムで市中引き回しの刑に・・・なる訳ないだろ
ロイウィルキンズが ついにアフリカ回帰運動を唱えて
三色ジャンプスーツを着てワッツ地区を練り歩く・・・はずないだろ
革命とはテレビで放送されないのだ

『農業天国』だの 『じゃじゃ馬億万長者』だの
こんなコメディドラマとアンタ自身に どんな関係があるんだ?
ソープオペラ『明日を探して』の二人は「結局ヤッちゃうのかな?」
そんなことを気にする主婦なんて居るのか?
すべての黒人は 明るい未来を求め
家に居残っていられなくなる
革命が 家まで届けられることは無いからだ

革命が起きれば 夜11時のニュースで流れると思うか?
アンタの革命は「ウーマンリブの女性は脇毛を剃りません」てか?
アンタの革命は「ジャッキーオナシスが人前で鼻をかみました」てか?
それからなあ
革命てのは BGMもついてないんだぞ?
ジムウェブだの フランシススコットキーズだの
によるオープニング音楽も無いし
グレンキャンベルだの トムジョーンズだの
ジョニーキャッシュだの イングルバートハンパーディンクだの
が唄う主題歌も無いぞ
革命というのはテレビで放送されないのだ

革命は「この続きはCMの後!」などと言わない
白くなる洗剤のCMだの
白い歯になれる歯磨き粉のCMだの
白い人達のCMだの
制汗クリームだの
速く走れるガソリンだの
よく汚れが落ちるトイレ洗剤だの
革命とはそんなものではない

革命は甘味飲料じゃねえぞ?
革命で「スカッと爽やか」にならない
革命は口内殺菌剤じゃねえぞ?
革命で「お口クチュクチュ」できない
しかし革命が起こったときには それこそ
「次はアナタが効果を実感する番です!」

革命はテレビ中継されない
革命はテレビ放送されない
もちろん再放送もできない

なあ兄弟よ・・・革命が起きるときは目の前で起きるんだ・・・‼


〖 Gil Scott-Heron(ギル・スコット・ヘロン)〗

1949年、シカゴに生まれる。テネシー州ジャクソンで育った後、13歳でNYに移住。12歳までに2冊の本や詩集を出版した詩の天才。またその詩才を発揮したポエトリー・リーディングとジャズとを融合させたパイオニアでもあり、ヒップホップの祖の一人にも数えられる。

10歳の時にピアノを買ってもらったギルは、ほとんど独学で勉強し、家計を助けるためにパーティーなどでの演奏をするようになる。しかし、ペンシルバニアのリンカーン大学に進んだ彼は文学に熱中するようになり、二年生の時に一年間休学し、処女小説「禿げ鷹」を書き上げた。続いて、彼は大学にもどると処女詩集「Small Talk At 125th And Lenox」を書き、1970年には両方が出版された。

数ある代表曲の中でも、人々に大きな影響を与えたのが社会の作りあげた理想と現実の違いをあからさまに語った“The Revolution Will Not Be Televised”は、ファンク・ビートとギル・スコット・へロンの生々しい語りが脳裏にこびり付いて離れぬ強烈な印象を残す楽曲である。

大学に復帰していた彼は、この頃「Brian Jackson(ブライアン・ジャクソン)」というピアニストと出会う。子供の頃からずっとクラシックを勉強していたというブライアンは、ジャズにのめり込み作曲も手がけるようになっていた。彼はギルの詩を読むとそれに曲をつけただけでなく自ら演奏をかってでた。

こうして、ギルとブライアンのコンビが誕生し、ペンシルベニアのリンカーン大学を卒業後、NYのコロンビア大学で教鞭をとる傍ら詩を書き、支持者の後押しもあり、ジャズの世界へ。ギルはいよいよ詩と歌に専念できるようになり、ギルにとって初の歌もの2ndアルバム「Pieces Of A Man」(1971年)が発表され、このアルバムからは「Revolution Will Not Be Televised(革命はテレビで放送されない)」がヒットし話題になった。

黒人解放運動(黒い革命)がもつ現在進行形のパワーを表現した過激な詩とブライアンのフルートによりファンキーかつ危険な香りの音楽に仕上がったこの曲は、2000年公開のモハメド・アリの伝記映画「Ali」でもタイトル・マッチのシーンで使われた。

続いてギルは、1972年に片面づつ詩の朗読と歌を収めた3rdアルバム「Free Will」(1972年)を発表。その後、彼らはレコード会社を移籍。その後、ギル&ブライアンというコンビで作品を発表してゆくことになる。演奏は、ギルの歌とピアノ、ブライアンのピアノとフルート、それにドラムとベースが基本スタイルである。

1975年、彼らに大きな転機が訪れる。大手レコード会社CBSから独立し、新レーベル「アリスタ」を立ち上げたばかりのやり手オーナー「クライヴ・デイヴィス」が彼らを獲得。彼はボブ・ディランのような詩を書き、スティーヴィー・ワンダーのようにソウルフルに歌う、新しい時代の黒人アーティストとして売り出されることになり、当時活躍していた、マーヴィン・ゲイダニー・ハサウェイカーテイス・メイフィールドなど、ニュー・ソウルのアーティストたちも目標となっていたのだ。

そこで彼らは、より分厚いファンク・サウンドを目指しバンドにパーカッション3名、サックス、バック・ヴォーカルを加え、新たにミッドナイト・バンドとして再スタートを切る。

1975年には、5thアルバム「The First Minute of A New Day」、6thアルバム「From South Africa To South Carolina」の2枚をリリース。このアルバムは、彼の作品として初めてビルボードのアルバム・チャート29位まで登った。

1976年の7thアルバム「It’s Your World」には、ライブとスタジオ録音、両方を収めた作品集をリリース。1977年に8thアルバム「Bridges」、そして1978年には9thアルバム「Secrets」をリリースし、収録曲の“Angel Dust”がビルボードのシングル・チャート15位まで上昇した。

最後の2枚には、プロデューサーとしてマルコム・セシルが参加。彼はスティーヴィー・ワンダーのシンセサイザー・サウンドを生んだ人物で、彼の参加によりギルのサウンドは変化し、ギルとブライアンのコンビも解消されることとなる。

80年代になると10thアルバム「1980」など、よりファンク色が濃くなり、自らが影響を与えたヒップホップへも果敢に挑戦した。1980年に11thアルバム「Real Eyes」、1981年に12thアルバム「Reflections」、1982年に13thアルバム「Moving Target」と毎年精力的に作品を発表。3枚はどれも完全なソロ作となるが、決してパワー・ダウンしなかった。

特に、ブライアンとコンビを解消後、発表した12thアルバム「Reflections」に収録されているマーヴィン・ゲイの「Inner City Blues」のカヴァーは有名である。しかしその後、アリスタ・レーベルとのトラブルがあって契約を破棄して以降、90年発表の2枚組ライブアルバム「Tales of Gil Scott-Heron and His Amnesia Express」まで、まったく作品が発表されなかった。(1994年、久々のオリジナル・14thアルバム「Spirits」を発表)



その後も、革命的な視点の下、権力や構造社会へ止むことのない攻撃を作品上で発表。そのスタイルは、後のヒップホップの原型の一つと言っても過言ではない ‼

5.0 rating

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