【 Brown Sugar 】
ある日突然… ‼
人はそれまでの志向を劇的に揺るがす物事に出くわす。
そして、
あっ!という間に「感化され、変化し、同化」する…
それはまるで、
つい今さっきまでの世界観が崩壊し、
革新的な世界が今ここにおいて突如として誕生し、
自己超越を瞬間的に体験すると同時に自己実現をなす。
1995年、D’Angelo(ディアンジェロ)との出会いは、
その衝撃とともに、自身の音楽性と精神性を一変させた…
70年代のニュー・ソウル誕生以来の興奮と高揚感は、
いまもって変わらないまでも、90年代半ばのD’が奏でる
ネオ・ソウルの到来は、「変わりゆく、変わらないもの」…
つまり、アフロセントリックの「根本的で革命的」な
音楽の進化を目の当たりにすることになったのだ・・・❣
【 Smooth 】
D’Angelo(ディアンジェロ)のファーストアルバム「Brown Sugar(1995年)」は、R&Bのラヴソングが「ドープ」という言葉で形容されうることを証明した ‼
D’の作品の多くは、タメの利いたスネアやリムショット(ドラムの縁を叩く演奏法)とオフビート気味なキックが相乗的にはたらき、中毒性を帯びたグルーヴが生まれる。
そこに絡むのが、ミステリアスなD’のエレクトリック・ピアノや、ゴスペルの空気を吸ったD’のオルガンである。
D’の強烈な個性や主流の音楽市場とは相容れない灰汁(アク)のようなものの中には、黒人音楽界における最後の天才ぶりが伺える・・・❣
【 Cruisin’ 】
D’Angelo(ディアンジェロ)のファーストアルバム「Brown Sugar(1995年)」が世に出るやいなや、従来のR&Bシンガーとは一線を画すヒップホップ世代の新たな歌い手として大いに注目を浴びた ‼
D’の注目度の高さはデビュー当時、ショウケース・ライヴに収容人数の4倍となる4000人が集まり、会場周辺は大混乱、あのプリンスでさえも入場出来なかったという伝説を残すほどであった。
彼の台頭は単に70年代ニュー・ソウルの焼き直しではなく、ヒップホップのアートフォームとアティテュードに基づいた新世代のソウル・ミュージックである。
その老成したソウル趣味と青い衝動が交錯するD’の楽曲は、「ダニー・ハサウェイ」のようにローズやオルガンを操り、憧れの「マーヴィン・ゲイ」にも似た甘美なファルセットに酩酊感のある多重コーラスを絡めながら愛を歌う…
そして、スロウ・ジャムが醸し出すロマンティックなムードは、名匠「ダン・ピアーソン」のオーケストラを配した「スモーキー・ロビンソン」の“Cruisin”のカヴァーも含めて、D’の奥深いソウル・センスが光り輝く、デビュー作にして恐るべき異才ぶりを発揮している・・・❣
【 Higher 】
D’Angelo(ディアンジェロ)のファーストアルバム「Brown Sugar(1995年/全10曲)」の中から、独自の視点による4曲をお届けして、このアルバム紹介を最後にしたい ‼
1995年(平成7年)の年は、自身(当時28歳)にとっても思いで深い時で、結婚(前年の平成6年7月7日既に入籍)、長男の出産(前年は悲しくも一人目の子供が流産)をはじめ、私そして、現在は長男に受け継がれ所有する「GT-R 33」が発売されるなど、生活の中に新たな息吹が注がれた年であった…。
その二年前には音楽業界を離れ、ステージで歌う演者から貪欲なR&Bリスナーとして日々を送っていたそんな折、衝撃的なソウル・ミュージックとしてD’Angelo(ディアンジェロ)のファーストアルバム「Brown Sugar」が私の耳をそばだて、音楽性と精神性を一瞬のうちに変容(トランスフォーマティブ)させたのだ ‼
ただ、R&B好きなら誰もが知るメジャー・アーティストの名盤や好事家たちの間で親しまれてきたインディ盤とは明らかに一線を画していたにもかかわらず、当時も今でさえも「今日のR&Bは昔のソウルと地続きだ !」といくら説明しても、残念なことに表面的な繋がりが見えなければ「日本では見向きもされない」…❓
そんな切ない思いと、真の音楽的進化を切に祈りながら、D’の初代のドラマーだったラルフ・ロールが参加し、D’がまさに教会出身者としての出自を匂わせるラスト曲“Higher”を紹介したい。
ここで重要なことは、D’Angeloの登場が与えた影響は、それ以後の「ゴスペル界」にも及んでいることだ・・・❣
by JELLYE ISHIDA.
〖 D’Angelo(ディアンジェロ)〗
1974年2月11日、ソウル・ファンには「メイジャー・ハリス」の出身地として記憶されるヴァージニア州リッチモンドに、ディアンジェロこと「マイケル・ユージン・アーチャー」は生まれた。3歳の時、誰に教わるでもなくピアノに向かってプリンスの曲を演奏し、兄を驚かせたという彼は、しばらくして父親の教会でクワイアのためにピアノを弾くようになった。10代前半には、2年ほどクラシック・ピアノのレッスンも受けている。
楽譜が読めずともすぐに曲をマスターする彼に、ピアノ教師はヴァージニア・コモンウェルス大学を紹介。そこで「エリス・マルサリス」や「ジェイムス・ムーディー」に出会うものの、運命のいたずらか、彼の意に反して本格的にジャズを学ぶことは叶わなかったという。
10代半ばになると、いとこたちを従えて「マイケル・アーチャー&プリサイス」を結成。このR&Bバンドは彼が16歳の時に地元のコンテストで優勝、その特典として出場することになったアポロ・シアターのアマチュア・ナイトでは、ピーボ・ブライソンの “Feel The Fire” をパフォームして見事3位に入賞したという(後の出場ではジョニー・ギル “Rub You The Right Way” を歌って優勝)。
一方で、I.D.U(インテリジェント・デッドリー・ユニーク)なるヒップホップ・グループにコ・プロデューサーとして参加し、トラックを製作してもいた。ソウルとヒップホップの融合を目指したI.D.Uのデモ・テープは業界人の手に渡り、グループのブレインでありシンガーでもある彼の才能にスポットが当たる。
92年、音楽出版社からニューヨークに呼び出された彼は、『Brown Sugar』に繋がる自身のスタイルを披露し、まずは出版契約を獲得。その後、EMIとアーティスト契約を結んだのだった。
プリンスのポスターの貼られたリッチモンドの自室で、4トラックのレコーダーとEnsoniqのサンプリング・キーボードを操って書き上げられた曲たちが、95年にデビュー・アルバム『Brown Sugar』として世に出されると、従来のR&Bシンガーとは一線を画すヒップホップ世代の新たな歌い手として彼は大いに注目を浴びた。その注目度の高さはデビュー当時、ショウケース・ライヴに収容人数の4倍となる4000人が集まり、会場周辺は大混乱、あのプリンスでさえも入場出来なかったという伝説(噂)を残すほど。
彼の台頭は、「エリカ・バドゥ」などの女性シンガーを含めたレトロでありながらも新しいタイプのソウル・アクトをシーンに引き寄せるきっかけともなった。
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