これまで語られてきた「Blues(ブルーズ)の歴史」に共通するのは、西アフリカの音楽文化の描写に始まり、アメリカ南部の歴史的特性を重視する構成で、その歴史は、だいたい次のようにまとめることができる。
まずはじめに、アメリカ合衆国の黒人奴隷の多くが西アフリカから連行されてきた事実が確認される。そして、もともとこの地域では、アフリカの伝統である「グリオ」と呼ばれる世襲制の音楽家が存在していたことが語られる…。
グリオは、打楽器による複雑なリズム、コール・アンド・レスポンスをともなう集団での歌唱など、西アフリカに共通する音楽文化であるとの記述があり、のちに「ブルー・ノート(ブルースの形式)」として理論化された旋律の傾向について解説される…。
次に、アメリカ合衆国における奴隷制の説明が続き、南部における黒人奴隷の音楽文化が描かれ、最後に1863年の奴隷解放宣言以降、歌唱の内容はより「個人の内面性」が強調されるようになった・・・それが「ブルーズ」という音楽形式の端緒であるとまとめられるのだ・・・。
このようなブルーズの歴史が間違っているわけではない。ただし、ブルーズとアフリカ文化の結びつきについて実際には、いまだ解明されていない点が多い。また「ブルー・ノート」についても、19世紀後半に流行した特定の音楽文化との関連性が今、注目されている。
それが、『Barbershop Harmony(バーバーショップ・ハーモニー)』と呼ばれる男声合唱のスタイルである。
現在のアメリカやその他の国々(日本を含む)でみられるバーバーショップ・ハーモニー復興が、白人男性カルテットが主流であるため、音楽ファーンや研究者までもがエリザベス朝時代のイギリスの「バーバーズ・ミュージック」との影響関係を唱えるものが多い。
しかし、もともと南北戦争以前から理髪師(バーバー)の多くは、「自由黒人」で占められており、その結果として19世紀アメリカにおける理髪店は、理髪に訪れるだけでなく「合唱のリハーサル会場」としても利用していたのだ。そして、1890年代から1900年代初頭に爆発的に流行した「男性カルテット」のスタイルは、即興的で自然発生的なハーモニーを特徴とする。
ハーモニーの即興性はしばしば「マイナー」、「スワイプ(かっぱらう)」、「スネイク(くねくね進む)」といった俗語で表現され、全米の黒人街で流行した現象だったのだ。黒人音楽に詳しい人は、その半世紀後の『Doo-Wop(ドゥワップ)』の流行をすぐに憶いだすだろう・・・。
19世紀末の黒人コミュニティにおける『Barbershop Harmony(バーバーショップ・ハーモニー)』の流行は、同時期に流行した『ラグタイム』との共通性・・・どちらも「固定されたメロディを崩し、即興性を重んじる」・・・ことで❝黒人らしさ❞をアピールすることで発展し、さらにニューオーリンズの「黒人ブラスバンドの和声」を基礎づけたとの推測も・・・ということは、それが『ジャズの成立』に大きく寄与した可能性があるということである。
バーバーショップ・ハーモニーやラグタイムが世紀転換期の黒人社会に浸透していた事実は『Blues(ブルーズ)』の歴史を検証するうえで示唆に富む。なぜなら、ブルーズは決して「アメリカ南部の辺境」で隔離された状態で発達したのではなく、その初期の段階から同時代の音楽文化と相互に影響を及ぼし合いながら発展したからである。
by JELLYE ISHIDA.
20世紀前半のアメリカを代表する黒人カルテット『The Mills Brothers(ザ・ミルス・ブラザース)』もバーバーショップでハーモニーを学んだと証言している。※私が大好きな曲「I Heard(1934年)」。
この伝統的なバーバーショップ・コーラスの歴史は古く1870年代に遡り、南部の黒人たちの四重唱団が生み出したもの。そして、1910年に“Play That Barbershop Chord”という歌が出版されたときに初めて“Barbershop”という語が使用された。
【 Bert Williamsの“Play That Barbershop Chord” 】“Play That Barbershop Chord”は、アフリカ系アメリカ人の演奏者として知られる「Bert Williams(バート・ウィリアムズ)」の著名な作品(1910年の珍しいシート音楽)。
バハマ生まれのアフリカ系アメリカ人のコメディアンで歌手であるバート・ウィリアムズ(1874-1922)は、20世紀の最初の20年間の全盛期に、アメリカの劇場エンターテイメントの分野で驚異的な人気を博した人物で、当時の人種差別的な劇場のステレオタイプに準拠するため自分の黒い顔に黒い顔の化粧をし、多くの点で悲劇的な人物であった彼は「ブラックフェイスミンストレルショー」のジャンルで働いていた。
ミンストレルショーはアフリカ系アメリカ人を堕落させるため、白人のアメリカ人が長年の試みの重要な要素の1つであったにもかかわらず、ウィリアムズはマスクの後ろで感じた悲しみからコメディを作り、幅広く聴衆にアピールするハードラックステージのキャラクターと歌を作成した。
ウィリアムズは、アメリカのショービジネスにおけるアフリカ系アメリカ人の機会の発展という観点から、パイオニアとして広く認識されている。
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