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【JELLYE ISHIDA.セレクト: VOL.5】 Voodoo(2000年)/D’Angelo(ディアンジェロ)

【JELLYE ISHIDA.セレクト: VOL.5】 Voodoo(2000年)/D’Angelo(ディアンジェロ)

【 Untitled (How Does It Feel) 】

D’Angelo(ディアンジェロ)がファーストアルバム「Brown Sugar(1995年)」の世界で止まっていたなら、D’が現在ほどビックになることはなかっただろう ‼

4年のインターヴァルを経て発売されたセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」は、打ち込みを極力減らして多くの腕利きミュージシャンをフィーチャーしただけでなく、その録音がジミ・ヘンドリックスが設立したエレトリック・レイディ・スタジオでなされたことで作品の真正性を高めた。

更に傑作との呼び声も高いこのアルバムでD’は完全に突き抜けた。その証拠にセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」は、グラミーでベストR&Bアルバム賞を受賞した。

逞しい裸体をさらけ出したPVが話題となったバラード曲“Untitled (How Does It Feel)”のヒットにより、セックス・シンボルとしてのステイタスを確立している。

因みに、セカンドアルバム「Voodoo(2000年)」でのバラード曲は“Send It On”と先の“Untitled (How Does It Feel)”という、プリンス継承型ファルセットによる2つの美曲があるが、特に後者は本家を超えている・・・❣


【 Devil’s Pie 】

D’Angelo(ディアンジェロ)のセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」を牽引したのは、シングル先行発売され、アルバムの2曲目に収録されている“Devil’s Pie”だった ‼

切れ味抜群のビートにテディ・ペンダーグラスのバラード曲のベースでファンクさせた「DJ・プレミア」の手さばきはさすがで、ヒップホップの文脈から手放しで評価されたのも当然のことだろう。

続いてアルバムの3曲目に収録されている“Left And Right (feat. Method Man And Redman)”での「レッドマン&メソッド・マン」の参加もまた、ヘッズ達を引き寄せるのに一躍買った。

もっともそれらは想定内の素晴らしさと言うべきものである。しかし、実際の本作最大の成果はそこではない ‼

そこについて指摘する前に、このアルバムを牽引した“Devil’s Pie”を決して聞き逃してはならない・・・❣


【 Playa Playa 】

前述したように、D’Angelo(ディアンジェロ)のセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」を牽引したのは、シングル先行発売され、アルバムの2曲目に収録されている“Devil’s Pie” 続いてアルバムの3曲目に収録されている“Left And Right (feat. Method Man And Redman)”であり、もっともそれらは想定内の素晴らしさと言うべきものである…。

しかし、このアルバムが画期的なのはそこではない ‼

D’はラジオでかかるような同時代のR&Bを当時もそして現在もディスしていた。D’は何かの二番煎じを嫌うあまり、自らがこしらえた枠組みさえも飛び出そうとする。

ことに顕著なのがリズム・アレンジのさらなる追求だ ‼

「ピノ・パラディーノ」のベースに強烈に揺さぶられる“Playa Playa”のうねったグルーヴ、あるいは“Chicken Grease”の後半におけるハットの裏を突くバス・ドラムの連打。

デビュー作「Brown Sugar(1995年)」でも異質に感じられた独特のグルーヴ・センスはミュージシャンのプレイへも徹底され、マシン並の正確無比な刻みをトレードマークとしていた「クエストラブ」にルーズなドラムを叩かせる…。

そこに現存するレジェンドとされるジャズ·ミュージシャンほぼ全てと共演しているジャズ・トランペット奏者「ロイ・ハーグローヴ」の渋いホーンの味付けもあり、ファンクの一言で言い表すには忍びないほどその典型から離れたグルーヴ曲こそ、本作最大の成果なのだ・・・❣


【 Feel Like Makin Love 】

以前も述べたように、D’の生み出す楽曲はR&B好きなら誰もが知るメジャー・アーティストの名盤や好事家たちの間で親しまれてきたインディ盤とは明らかに一線を画していたにもかかわらず、当時も今でさえも「今日のR&Bは昔のソウルと地続きだ !」といくら説明しても、残念なことに表面的な繋がりが見えなければ「日本では見向きもされない」…❓

確かにD’自身インタビューで「自分のことをR&Bシンガーだと思ったことはない、いつだってR&Bなんてくだらないと思っていた ‼」と答えており、初めて作った曲もヒップホップで、常日頃からラップもしている…。

されど、D’のファーストアルバム「Brown Sugar(1995年)」のセピア色にくすんで白い折れジワが入った古びた写真には、髪を細かく編んだお洒落な現代青年が、大振りな襟のコートを着て彫像のように写っていた…。

そこには、90年代ストリート感覚によるオールド・ソウルのリセットといった作品の全体像が表現されていた(大襟のコートはマーヴィン・ゲイ『What’s Going On』へのオマージュだったことが後年明かされている)。

ただ、当時主流の音楽市場とは相容れない、灰汁(アク)のようなものがかなり含まれていたとしても、D’がカヴァーする楽曲を見る限り、クラシックなR&Bへの尊厳は見て取れるのである ‼

Feel like Makin’ Love / ロバータ・フラック
Can’t Hide Love / アース・ウインド&ファイヤー
Everybody Loves The Sunshine / ロイ・エアーズ
She’s Always In My Hair / プリンス
Sing A Simple Song / スライ&ザ・ファミリー・ストーン
Girl You Need A Change Of Mind / エディ・ケンドリックス
Sweet Sticky Thing / オハイオ・プレイヤーズ
Heaven Must Be Like This / オハイオ・プレイヤーズ
I’m So Glad You’re Mine / アル・グリーン
Water Get No Enemy / フェラ・クティ
I’ll Stay / ファンカデリック
Your Precious Love / マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル
Crusin’ / スモーキー・ロビンソン
Superman Lover / ジョニー・”ギター”・ワトソン
My Summertime Thang / ザ・タイム

そんなD’Angeloのセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」に収録されているロバータ・フラックの“Feel like Makin’ Love”をお届けしたい・・・❣


【 Spanish Joint 】

17~18世紀、近代の市民国家(西欧における啓蒙主義の勃興)の革命的な発展により、新しい理性的な宗教が求められ、その拠り所となったのは「アルス ( 科学、技術、芸術 ) 」であった ‼

イギリスやフランスではこのうち、特に 「科学と技術」が価値付けられ、一方、ドイツでは「芸術」が価値付けられた。特に近代ドイツでは以後、「芸術」が新たなる宗教的な位置にまで価値付けられていくことになった…。

新たなる神として位置づけられた「芸術」は、超越的であり、人間の世界から隔絶された普遍なる存在であることが求められ、ここにおいて「芸術の自律性」が問われるようになった…。

音楽でのベートーヴェンは、このような芸術を具現化しうる「天才」として代表的な存在となり、芸術は自律化の道を辿ることにより、その規範は「音楽」に求められた…。

つまり、「すべての芸術は音楽の状態を憧れる」こととなったのである ‼

そして現代(ここ約1世紀)、アメリカを本場とするポピュラー音楽によって広く世界中の大衆に親しまれ、そこには各民族のアイデンティティを表現する多様性に満ちた芸術として誰もが自由に「音楽的進化」を体現できるに至っている・・・。

D’Angelo(ディアンジェロ)のセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」は、自身の独断的批評から述べるとするならば、「21世紀における音楽の規範」とも言える作品である ‼

D’Angelo(ディアンジェロ)のセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」の楽曲とその特色を惜しみなく紹介してきた最後の締めとして、私的な趣向の中で最も高揚感と酩酊感、そして幻惑的なエクスタシーに至らしめる2曲“Spanish Joint”と“The Root”をお届けしたい・・・❣

by JELLYE ISHIDA.


〖 D’Angelo(ディアンジェロ)〗

 
1974年2月11日、ソウル・ファンには「メイジャー・ハリス」の出身地として記憶されるヴァージニア州リッチモンドに、ディアンジェロこと「マイケル・ユージン・アーチャー」は生まれた。

3歳の時、誰に教わるでもなくピアノに向かってプリンスの曲を演奏し、兄を驚かせたという彼は、しばらくして父親の教会でクワイアのためにピアノを弾くようになった。10代前半には、2年ほどクラシック・ピアノのレッスンも受けている。

楽譜が読めずともすぐに曲をマスターする彼に、ピアノ教師はヴァージニア・コモンウェルス大学を紹介。そこで「エリス・マルサリス」や「ジェイムス・ムーディー」に出会うものの、運命のいたずらか、彼の意に反して本格的にジャズを学ぶことは叶わなかったという。

10代半ばになると、いとこたちを従えて「マイケル・アーチャー&プリサイス」を結成。このR&Bバンドは彼が16歳の時に地元のコンテストで優勝、その特典として出場することになったアポロ・シアターのアマチュア・ナイトでは、ピーボ・ブライソンの “Feel The Fire” をパフォームして見事3位に入賞したという(後の出場ではジョニー・ギル “Rub You The Right Way” を歌って優勝)。

一方で、I.D.U(インテリジェント・デッドリー・ユニーク)なるヒップホップ・グループにコ・プロデューサーとして参加し、トラックを製作してもいた。ソウルとヒップホップの融合を目指したI.D.Uのデモ・テープは業界人の手に渡り、グループのブレインでありシンガーでもある彼の才能にスポットが当たる。

92年、音楽出版社からニューヨークに呼び出された彼は、『Brown Sugar』に繋がる自身のスタイルを披露し、まずは出版契約を獲得。その後、EMIとアーティスト契約を結んだのだった。

プリンスのポスターの貼られたリッチモンドの自室で、4トラックのレコーダーとEnsoniqのサンプリング・キーボードを操って書き上げられた曲たちが、95年にデビュー・アルバム『Brown Sugar』として世に出されると、従来のR&Bシンガーとは一線を画すヒップホップ世代の新たな歌い手として彼は大いに注目を浴びた。その注目度の高さはデビュー当時、ショウケース・ライヴに収容人数の4倍となる4000人が集まり、会場周辺は大混乱、あのプリンスでさえも入場出来なかったという伝説(噂)を残すほど。

彼の台頭は、「エリカ・バドゥ」などの女性シンガーを含めたレトロでありながらも新しいタイプのソウル・アクトをシーンに引き寄せるきっかけともなった。

4年のインターヴァルを経て発売されたセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」は、打ち込みを極力減らして多くの腕利きミュージシャンをフィーチャーしただけでなく、その録音がジミ・ヘンドリックスが設立したエレトリック・レイディ・スタジオでなされたことで作品の真正性を高めた。

更に傑作との呼び声も高いこのアルバムでD’は完全に突き抜けた。その証拠にセカンドアルバム「Voodoo(2000年)」は、グラミーでベストR&Bアルバム賞を受賞。逞しい裸体をさらけ出したPVが話題となったバラード曲“Untitled (How Does It Feel)”のヒットにより、セックス・シンボルとしてのステイタスを確立している。

もっとも、順調だったのはここまでで、アルバム・タイトルを冠にしたツアーを終えると、彼は酒やクスリに溺れるようになり、ついにはリハビリ施設で治療を受けるまでに至った。

新作の噂がなかったわけではないものの、正式なアルバム・リリースのないまま歳月が過ぎていった・・・。

5.0 rating

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