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G2J Spiritus CLUB. VOL.9:Portrait of a Legend(伝説の肖像)/ CURTIS MAYFIELD

 

2016年10月、「偉大なるアメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞授与が決定したボブ・ディラン・・・。

その瞬間、「文学の形態(芸術・文学の批評)は大きく変わった」と思うと同時に、1963年の後半にボブ・ディランの「風に吹かれて」のカヴァーをライブで歌い出した「サム・クック」の姿と、そのメッセージからインスピレーションを得て生まれた「A Change Is Gonna Come(ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム)」が脳裏に浮かんだ。

また70年代に、ボブ・ディラン自身が「アメリカ最高の詩人」と絶賛し、そのリリックのセンスと繊細な歌い口で人々を魅了した「スモーキー・ロビンソン」、そして何よりも、今は亡き同じファルセットを持ち味とする「ひとりのシンガーの存在」が目に浮かんだ・・・。

マーヴィン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ、スティーヴィー・ワンダーとともに「ニュー・ソウル四天王」として括られる、シカゴ生まれの奇才『Curtis Mayfield(カーティス・メイフィールド)』、その偉大なる存在である ‼

ご存知のように、カーティスは所属するコーラス・グループ「インプレッションズ」を27歳で脱退し、70年代のニュー・ソウル勃興期にソロとして活躍しはじめ、そのメロディー、リリック、ヴォーカルともにシンプルながらも、説得力溢れるシンガー・ソングライターとして先に紹介したアーティスト達に引け劣らない。

また、少し枯れたファルセットで、時に囁くようにポジティヴなメッセージを歌うカーティスのヴォーカルは印象的で、インプレッションズ時代から、カーティスのファルセットの美しさには定評があったが、ファンクのリズムに乗ると独特の緊張感を持って響いてくる。

そして、カーティス(1999年12月26日/57歳没)亡き現在も、クリスチャニティに基づいた温かな眼差しを持ちながら、時にハードボイルドにも迫るカーティスの世界観や鬼気迫るファルセットに惚れ込んだR&Bシンガーは後を絶たない・・・。

本日は、Donny Hathawayの名盤「Live」が録音された場所として有名な、NYにあるThe Bitter Endでの“Curtis Live(1971年)”から、インプレッションズ時代の名曲「People Get Ready」をお届けしたい ‼

by JELLYE ISHIDA.



〖 Curtis Mayfield(カーティス・メイフィールド)〗

カーティス・メイフィールドもまた、70年にニューソウルの旗手として現れたのだが、彼はソロになる前、インプレッションズというコーラスグループですでに活躍しており、1958年には名曲「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」でデビューし、チャート3位となる大ヒットとなった。

インプレッションズはジェリー・バトラーがリードヴォーカリストで、「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」のヒット後はジェリー・バトラー&ザ・インプレッションズと改名して活動、その後ジェリーがソロになるために脱退し、以後はカーティスがシンガーとソングライター、ギタリストを兼任、グループを引っ張っていくことになる。

65年にはカーティスのペンとなる「People Get Ready(ピープル・ゲット・レディ/みんな準備はできてるかい)」をリリース、この曲はインプレッションズを代表するだけでなく、ポピュラー音楽史上に燦然と輝く名曲となった。曲の内容は公民権運動を取り上げたものであり、この頃すでにカーティスの中には、思想的にも音楽的にもニューソウル的な下地が固められつつあったのだ。

「ピープル・ゲット・レディ」はボブ・ディラン、アレサ・フランクリン、ボブ・マーリー、アル・グリーンなど、多くのアーティストがカバーしており、日本でもハナレグミや綾戸智恵のバージョンがよく知られている。

カーティスはインプレッションズの活動と並行して、多くのアーティストに曲を提供し、ギタリストとしても参加するなど精力的に活動する。そして、68年には自身のレーベル「カートム・レコード」を設立し、ここから彼の音楽を発信していく。

60年代の終わりにはジェームス・ブラウンはファンクのスタイルを確立し、スライやパーラメント/ファンカデリックらも独自のファンクを生み出していた。しかし、カーティスやマービン・ゲイらに代表されるニューソウル派のアーティストは、ソウルやファンクをミックスし、ノーザンソウル(フィリーソウル)でよく使われる華美なストリングスを取り入れるなど、都会的でソフィスティケートされたポップソウルのテイストが特徴である。

1970年、満を持してカーティスはアルバム『カーティス』をリリースし、ソロデビューを果たす。このアルバムに収録された「Move On Up(ムーブ・オン・アップ/顔をあげて進め)」はカーティスの名前を知らなくても、誰でも1度は聴いたことがある、未だに古くならない傑作を含むこのアルバムは全米R&Bチャートで1位となる。

※ソロでの1stアルバム“Curtis (1970年) ”から、名曲「Move On Up」

このアルバムでカーティスの音楽はすでに確立されており、その後のソウルの基本形となるスタイルがある。それは、ニューソウルの幕開けとも言われるマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン』に並ぶ1枚であり、マーヴィンよりも約1年ほど早いリリースだったのだ。

続いて『カーティス/ライブ!』(‘71)、『ルーツ』(’71)をリリース、音楽的には『カーティス』とさほど変わらないが、ソングライターとしてのカーティスはまだ成長を続けており、どちらも素晴らしいアルバムに仕上がっている。そして、彼の代表作の一枚となるサントラ『スーパーフライ』(‘72)を出す。このアルバムはR&Bチャート、ポップスチャートの両方で1位を獲得し、以降に登場するソウル系アーティストに多大な影響を与える記念碑的な作品となるのである・・・。


【カーティス・メイフィールドについて最も話したいこと!】

ダニー・ハサウェイが闘いの途中で力つきた悲劇の人とするなら、カーティス・メイフィールドは、傷つきながらも、最後まで力強く闘い抜いた勝利の人と言える・・・。

どちらの人生も苦しみの連続だったはずだが、少なくともカーティスは、死の間際まで神への感謝を忘れず、彼の死はけして孤独なものではなく、多くの人々に見守られながらの死は、逆に人々に勇気を与えるものだったと言われている。

カーティス・メイフィールドについて最も話したいことは、彼は晩年の1990年8月14日、思いもよらない事故に遭遇する・・・。

ニューヨーク・ブルックリンで行われていた野外コンサートの最中、強風にあおられた照明が頭上に落下し、首の骨を折ったカーティスは半身不随となる…。しかし、彼は懸命にリハビリに取り組み、そうした姿勢に動かされたアレサ・フランクリン、スティービー・ワンダーら仲間たちは、彼にささげるトリビュート・アルバム「All Men Are Brothers」を制作・発表すると、この世界に一つの奇跡がもたらされる。

1996年、カーティスが遂にカムバックを果たし、彼の「白鳥の歌」と言える「New World Order」をリリース。そのアルバムは、かつての名作にまったく引けを取らない素晴らしい内容であることに、世界中の人々は驚かされた ‼

けれど、その収録は大変なもので、事故の後遺症で車椅子生活となった彼は、ギターを弾くことができなくなっていた。また、彼が務めたボーカルの録音は、一節ずつベッドに横たわったまま行われた。(その後、1998年には糖尿病のために右足の切断手術を受ける)

この辺りのことを、驚愕のサイト「ポップの世紀 Pop Culture of 20th Century」のページ「神とともに生きた男、その魂の歌」では、次のように表現している…。

「それはまるでイエス・キリストの復活のように輝きに満ちていました。・・・苦しみに満ちた人生でも、彼はいつも神とともに生きていました。だからこそ、喜びとともに、その生を終えたに違いないのです・・・」。

そして、1999年12月26日、クリスマスの翌日にカーティス・メイフィールドはジョージア州で10年近い闘病・リハビリ生活を終え、57歳で黒人解放運動の聖地アトランタで静かに永遠の眠りについた・・・。

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