リズムやビートに合わせてしゃべったり語ったり、しばしば音楽の演奏にあわせて歌詞、詩、物語を「歌う」というよりは「話す」といった『口頭芸術(文学の芸術、または芸術的パフォーマンス)』の起源・源流は、アフリカの伝統である「グリオ」にまでさかのぼる事ができる・・・‼
アフリカ系アメリカ人の物語は、勝利の為なら規則に縛られずに巧みな知恵を使いこなすトリックスター(それは必ずしも人間とは限らない)のような英雄やその功績を賞賛する傾向(トースティング/祝杯を上げること)にある。
リズムやビートに合わせてしゃべったり語ったりする行為、あるいは歌唱と聞くと、すぐさま「ラップ」を連想するが、メロディをあまり必要とせず、似た言葉や語尾が同じ言葉を繰り返す、韻(ライム)を踏むのが特徴的で、口語に近い抑揚をつけて発声する唱法にも、曲の拍感覚に合わせる方法(オン・ビート)と合わせない方法(オフ・ビート)がある。
また、レゲエにおける「トースティング(toasting)」のように、抑揚を付け独特のメロディを付ける歌唱もあり、普通の歌のようにメロディを付けた物や、トースティングのような抑揚の付け方やメロディの物でラップと呼ばれる物もあるが、唱者がどのような手法を得意としているかにもよる・・・。
その他、チャッティング(chatting)、ディージェイング(DJing、またはdeejaying)、スカンキング(skanking)、ポエトリーリーディング(poetry reading)、スポークン・ワード(Spoken word)などの口頭・歌唱手法があり、一般的にオーラル・トラッディッショナルやブルーズのような他のアフリカ系アメリカ人による芸術と同じく、トースティングにも復唱、暗唱、即興などの複数の要素が使用される。
トースティング(トーストとも呼ぶ)は、レコンストラクション時代(1863年)から続く都市の伝統であり、その後のラップを含む口頭・歌唱手法誕生の場は、1960〜70年代、アメリカニューヨークでみられたブロック・パーティーだと言われるが、古くは「アフリカン・グリオ(文盲者に口伝で歴史や詩を伝える者達)」にそのルーツが見られ、マルコムXやキング牧師といった政治的指導者のスピーチにも大きく影響を与えている・・・。
では、Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)がトーストする貴重な音源「Distant Lover」をお届けしたい ‼
by JELLYE ISHIDA.
〖 Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)〗
あるインタビューの中で、「プライベートではマーヴィン・ゲイを好んで聴いている。ビリー・ホリディがそうだったように、マーヴィン・ゲイには楽器のように声をコントロールできる才能がある・・・」と述べたのは、偉大なるジャズ・ジャイアンツ「マイルス・デイヴィス」である。
また、1995年、アース・ウィンド&ファイヤーのフィリップ・ベイリーいわく、「神が授けた飛ぶという才能を、鳥は悩まない。如何に速く、優雅に空を舞うかだけを考える。マーヴィン・ゲイも神から美しい声を授けられた。だが、彼は如何にして声を磨くかだけでなく、何故、神が彼にその声を授けたのかまでも思い悩んでしまった。そして、自らを出口のない場所にまで追い込んでしまった・・・」と、紺野慧氏のインタビューで話している。
たぐい稀なる感性と音楽の才能を神から与えられたマーヴィンは、声のトーンを自由自在に操る能力に長けている。その時々で変化するマーヴィンの魂は、 そのままメロディとなって表現されていく。だからリスナーは彼が織り成す歌の世界に、いとも簡単に入り込むことができるのだ・・・。
マーヴィン・ゲイの神から授けられた才能を最初に見出したのは、人気ドゥーワップグループ、ムーングロウズの「ハーヴェイ・フークワ」だった。
1958年にワシントンD.C.で当時19歳のマーヴィンと出会ったハーヴェイは、キラリと光るものを見出すと1960年にはムーングロウズを解散させ、この10歳年下の青年に賭ける気持ちでモータウン・レコードのあるデトロイトを目指した。そしてハーヴェイは、モータウンとプロデューサー契約を結び、翌年の5月にはマーヴィンがデビューを果たす。
その2週間後には、当時「ショップ・アラウンド」が大ヒットしていたがアルバム・デビューはまだであったミラクルズを差し置き、異例の早さでアルバム・デビューをも果たしている。
実は、ジャズをこよなく愛するマーヴィン・ゲイはデビュー当時、「ナット・キング・コール」のようなスタンダードを朗々と歌いあげるような歌手になりたかったし、ジャズ・スタンダードのアルバムを出すのが念願だったという。モータウンの創業者であるベリー・ゴーディーJr.もマーヴィンの光る才能に期待していたことがうかがえる。
実際ファースト・アルバムはそのような体裁で録音された。その願いもナット・キング・コールが亡くなった1965年にトリビュート・アルバムをリリースするという形で叶うなど、いくつかのムーディーなアルバムも録音されたのだが、これはさっぱり売れなかった。
マーヴィン・ゲイが一躍モータウンを代表するシンガーのひとりであることを知らしめ、「サウンド・オブ・ヤング・アメリカン」との名を標榜し、大躍進するターニング・ポイントとなった作品は、63年の2ndアルバム『That Stubborn Kinda Fellow』であった。
事実、このアルバムでもマーヴィンは成功を掴むのだが、その為かこの時期はかなりソウルシンガーとポピュラーシンガーの間を揺れ動く事となる。
しかし、Marvin Gaye の最後の “e” は、憧れの「ミスターソウル」Sam Cookeの “e” を真似たことは有名な話しでもある・・・。
その後「エイント・ザット・ペキュリア」や「ハウ・スウィート・イット・イズ」など、いくつかのヒット曲はあったものの、テンプテーションンズやフォー・トップス、シュープリームスといったグループの人気の陰に隠れて、モータウンの目玉アーティストにはなれず、マーヴィンは悔しい思いを胸のうちに抱えていたという。
しかし1967年にベリー・ゴーディーJr.の発案でタミー・テレルとデュエットを組むと、マーヴィンの甘く優しいヴォーカルと情熱的なタミーのヴォーカルとの相性がロマンティックな魅力を放ち、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」などヒット曲を連発するようになった。だが、その年のライヴでタミーは「ユア・プレシャス・ラヴ」を歌っている最中にマーヴィンの腕の中に倒れ込んでしまう。タミー・テレルの病は思いのほか重篤であり、それから3年後に彼女はこの世を去ってしまうのだった。
そしてタミー・テレルの死後、マーヴィンは銃を持って部屋にこもり、ドラッグ漬けの自暴自棄な日々を過ごすようになる。豊かな感受性は、裏を返せばとても繊細で傷つきやすく、またその繊細さこそがマーヴィン・ゲイの声が持つ魅力だったのかもしれない。
「タミー・テレルの事件の後、誰とも会わず、ひとりで部屋にこもりながら死への誘惑に捕らわれていたとき、常に心に突き刺さっていたのは彼女に何もしてやれなかったという思いだった・・・。
タミー・テレルが腕の中に倒れ込んでくるほんの数分前まで、キミがトラブルに見舞われたときにはふたりの間にどれほど高い山や深い谷があろうとも駆けつけて見せると“ エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ ”を歌っていたのに、実際には腕の中にいる彼女を呆然と見ているだけでしかなかった・・・」。一方でマーヴィンは、ヒットを追いかけ歯の浮くようなラヴ・ソングを歌っている自分の音楽は、ブラック・コミュニティの現実に対して何も貢献していないと感じていたという。
1960年代中頃のアメリカは激動の時代にあった。黒人公民権運動においては、1965年にマルコムXが、1968年にはキング牧師が銃に倒れ、各地で暴動が起こっていた。また1965年にアメリカ軍がベトナムへの空爆を開始し、ベトナム戦争に突入していった。
1971年にマーヴィン・ゲイは、ベトナムから帰還した弟フランキーの話から、その戦争がアメリカもベトナムもどちらも傷つくだけの不毛な戦いであるということを知ったという。
黒人公民権運動で流れた血、ベトナム戦争、そしてスラムの貧しさからくる家庭の崩壊や暴力など、全ての傷や痛みの本質を伝えるため、マーヴィンはタミーの死というショックを乗り越え、再び歌うことを決心する。
そのコンセプトに基づいて誕生したのが、ニューソウルの始まりとも言われる名盤『愛のゆくえ~What’s Going On』である。
「歌うという才能を神から授けられた自分は、何ができて、何をしなければならないのか。そう考えたとき、ただロマンチックなことばで歌を飾るのじゃなく、社会をみつめ自分自身のことばで人の心や魂を揺さぶる歌を書く。それがアーティストの使命ではないのかと思い至った・・・」。
傷つき、悩み抜いた末に神から授けられた歌うという才能を存分に生かしきった、魂を揺さぶる歌声が聴けるのが、マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」なのだ・・・。
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